代々木、初台、本町の歴史散歩


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宝珠山福泉寺
 明治神宮は元は加藤清正の下屋敷で、その後、井伊大老家が継ぎ、維新後は皇室御料地となっていた。現在の明治神宮御苑の東門近くに「代々木の大樅」といわれたモミの木があり、その名が由来といわれます。
 また、代々サイカチの木(豆科の落葉高木)を生産したことにちなんでいるという説もあります。

 徳川2代将軍徳川秀忠の乳母と、「初台局」が天正十九年(1591)、当時の代々木村に二百石の知行地として賜ったところで、晩年ここに隠居したことから、地名が「初台」になったといわれています。正春寺は、初台局の菩提寺になります。
 また、代々木村に太田道灌が作った8ヶ所の砦のうち、一の砦(狼煙台)のあった場所から初台と呼ばれる様になったという説もあります。


 本町は本村を改めたもの。昭和七年に、旧代々幡町の大字となっていた幡ヶ谷のうち、字本村・下町、三谷などが合併して幡ヶ谷本町として成立した。幡ヶ谷の地の古くからの中心地であったために「本村」であったことでこの町名になった。


代々木八幡宮



代々木八幡宮  代々木八幡宮は、建暦二年(1212)、源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人の荒井外記智明によって創建された。頼家が修禅寺で暗殺された修禅寺事件後、智明は武蔵野国代々木野に隠遁し主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦二年、鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見た。そこで、元八幡の地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが代々木八幡宮の始まりであると伝えられている。
 また、第三世長秀法印が紀州徳川山田氏を中興の開基として、寛文年間(1661〜1673)に現在の土地に社殿を造営し、稲荷、天神を祀った。





代々木八幡遺跡代々木八幡遺跡
 昭和二十五年、境内の発掘調査が行われ、約4500年前の縄文時代の住居跡などが発見され、現在では「代々木八幡遺跡」として竪穴式住居を復元したものとともに渋谷区指定史跡になっています。



訣別の碑
訣別の碑
 明治四十二年代々木の原に陸軍の練兵場が設けられた時、突然追い出されることになった農民たちが、この地との別れを惜しんで奉納した灯籠2基が境内に残されています。下段には、奉納者17名の名が刻まれています。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


 宝珠山福泉寺



宝珠山福泉寺
 宝珠山福泉寺は代々木八幡宮のすぐ隣にある天台宗の寺です。
 源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人、 荒井外記智明が、代々木八幡宮とともに庵を創建したといいます。また、第三世長秀法印のとき八幡宮とともにこの地へ奉遷しました。











仏足石
 本堂正面に「仏足石」があります。仏足石は釈迦の涅槃入り後、弟子たちが釈尊を偲んで刻んだものといわれています。陰刻された足型には、指に華文、指の間に縵網、内側から金剛杵・双魚・宝剣・花瓶、中央部には螺玉、踵にかけては二つの月王相、千輻輪および三宝標が刻まれている。



齋藤弥九郎の墓 墓地には、幕末の剣豪で神道無念流の齋藤弥九郎の墓があります。剣と砲術で名高く、 江川太郎左衛門と共に江戸湾の測量、 品川砲台の建設等に参画したことで知られています。 練兵館の館主として指導したのは、 木戸孝允 (桂小五郎)、 高杉晋作、井伊直勝等門下三千余人に及んだといいます。 当寺練兵館は江戸三大 道場のひとつで、 「位の桃井 (士学館)、 技の千葉 (玄武館)、 力の齋藤」 といわれていました。  


 》千葉周作 玄武館へ



 宝珠山福泉寺 庚申塔
 庚申塔(こうしんとう)は、庚申塚(こうしんづか)ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。江戸時代に盛んになり、村の辻などに庚申供養塔が建てられた。
 庚申信仰)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。

正春寺



正春寺 田村成義像
 初台の局の菩提寺として知られる正春寺は、慶長十九年(1614)、文京区湯島に天台宗専西寺として建立された。
 元和六年(1620)初台の局は知行地に菩提寺を建てようとしたが、当時江戸幕府の政策で新寺建立は認められなかった。そこで孫の秀教坊正入が慶長十九年(1614)湯島に建てた専西寺を引寺するという形で菩提所を建てた。その後、娘の梅園局(家光の乳母)が、知行地を受け継ぎ、剃髪後正春院清安として代々木に隠居した。寛永四年(1627)正春院と正入は、天台宗から真宗東(大谷派)に改宗し、同十年(1633)菩提所を湯島山専西寺安養院と号し、正保二年(1645)に山号を柴山に改めた。


田村成義像
 正春寺の境内には、田村成義の像が建っている。東京日本橋生まれ、明治・大正期に千歳座(のちの明治座)・市村座を経営し歌舞伎振興の功労者である。
 この像は明治44年田村の還暦の日に、中村芝翫・市川八百蔵・尾上梅幸・市川段四郎など芝居関係者72人によって建てられた。

聖徳山諦聴寺

聖徳山諦聴寺
 諦聴寺は、堀永山と号す真宗大谷の寺である。木造では区内最古という平安時代以前の聖徳太子像が安置されている。明治・大正時代まで、太子講が運営され縁日が盛んであったという。

箒銀杏

 箒銀杏
 このイチョウの木を、少し離れた位置からみるとホウキを逆さに立てたように見えるのでことから箒銀杏呼ばれるようになったという。樹齢約200年近くの玉川上水によって成長していったと考えられています。

幡ヶ谷不動(荘厳寺)

 
 幡ヶ谷不動   荘厳寺
 
 荘厳寺は、弘法大師の教えをまもる真言宗のお寺です。永禄四年(1561)に宥悦法印を開山として創建されました。 明治の火災・昭和の戦災などで、文書・旧記が焼失してしまったため、寺の詳しい変遷はわかりません。しかし、江戸時代後半(1800年頃)から昭和にかけて、弘法大師にちなむ大師講の巡礼団が、江戸八十八か所のうちの十一番目札所として、盛んに荘厳寺を参拝したことが、寺に残る二基の標石から伺うことができます。また、荘厳寺は、幡ヶ谷不動尊としても名高く、江戸時代から霊験あらたかな不動尊として人々に尊崇され、多くの参詣人で賑わったということが、1800年代初期に編纂された『江戸名所図全』に詳しく解説されています。それによりますと、本尊不動明王像の作者は、延暦寺第五世座主、三井寺再興の智証大師円珍です。その後、この不動尊は天慶年間に平将門を討滅した平貞盛・藤原秀郷、さらに、永禄年間には武田信玄、北条氏政等の手を経、延享四年、霊夢のお告げに従って荘厳寺に安置されたとあります。前述のように、常夜燈明治・昭和に全山が焼失してしまいましたが、今でも境内には、山門前の石造狛犬一双、道標常夜燈として使われた高さ三メートル余りの石燈籠、「暮おしき四谷過ぎけり紙草履はせを」と彫られた芭蕉の句碑、「花くもりくもりあれほとときすそめかみの庵安永八年(1779)建己人時来」とある杜鵑塚、また、左右に「威徳退百邪・神力護萬世」と刻された花崗石の門柱、その他、多くの諸石造物が現存し、当時の賑わいを彷彿とさせてくれます。   
                          「幡ヶ谷不動 荘厳寺 パンフレットより」

旗洗池跡



旗洗池跡
 後三年の役(1083〜87)のあと、八幡太郎源義家が上洛の際にここ周辺に立ち寄り、池で源氏の軍旗「白旗」を洗い傍らの松の木で乾かした」、という伝説が残っています。のちにその白旗は金王八幡宮の宝物となり、現在残されているものがそれにあたるといわれています。
 またこれが現在の幡ヶ谷の地名の由来になっているといわれています。
 その池は、肥前唐津藩主小笠原家の邸内にある、自然湧水の60平方メートルほどの池でしたが、昭和三十八年(1963)に埋められ、現在は東郷平八郎筆の記念碑だけが建っています。


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