上野周辺の歴史散歩 Part1


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西郷隆盛銅像
  上野の地名の由来は、諸説がありますが、一般的には、台地の低地部分を下谷と称したことの逆に台地だったところから上の野という意味で上野と呼ばれ、それが地名になったという説が妥当のようです。
 その他には、
 1.江戸時代初期に伊賀上野の城主であった藤堂高虎の屋敷地で、地形が本拠地の伊賀上野に似ている点から「上野」と命名したという説。
 2.小野篁が上野国(現在の群馬県)での任を終えて京へ帰る途中で、当地に館を建ててしばらく滞在し、その際地元の人が篁のことを呼んだ「上野殿」が地名になったという説。
 などが残されています。

西郷隆盛銅像



西郷隆盛銅像
 「上野の西郷さん」として多くの人たちに親しまれている銅像である。筒袖に兵児帯、草履ばきで小犬を連れている姿に、イト夫人が「うちの人に似ていない」といって嘆いたのは有名な話である。
 江戸城を無血開城させ、江戸市中を戦禍から救った功績をたたえ、像は、明治二十四年(1891)宮内次官の吉井友実らの呼びかけで、二万五千人からの寄金をもとに、明治三十一年(1898)に建立。除幕式には勝海舟、山形有朋も臨席した。西郷隆盛の像を高村光雲が、犬を後藤貞行が制作した。
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目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。




彰義隊の墓



彰義隊の墓
 徳川幕府に最後まで忠誠を誓った幕臣3,000人が上野山に立籠り、彰義隊と称し、輪王寺宮を擁して大村益次郎率いる新政府軍と激突した。(上野戦争)
 慶長四年(1868)5月15日早朝から、新政府軍20,000人は攻撃を開始し、佐賀藩のアームストロング砲が、不忍池越えに撃ち込まれると壊滅した。
 彰義隊の戦死者266名の遺体は見せしめのため長く置き去りにされ、これを哀れんだ南千住円通寺の住職仏摩らによって、この地で荼毘され、円通寺に葬られた。
 小墓石は、明治二年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治十四年(1881)に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻まれている。
 平成二年に台東区有形文化財として区民文化財に登録された。

清水観音堂

 
清水観音堂
  清水観音堂は、寛永八年(1631)に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって創建された。
 天海大僧正は寛永二年(1625)に、二代将軍徳川秀忠から寄進された上野忍ヶ岡に平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開いた。それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門を守護、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味しました。
 そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立した中の一つが清水観音堂です。

 子年生まれの方の守り本尊は千手観音座像で京都清水寺より奉安したもの。平家物語にも出てくる身代り観音としても知られています。毎年二月の初午の日だけ開扉。
 清水観音堂の景観は、江戸時代より安藤広重の「名所江戸百景」など浮世絵の題材として取り上げられるなど著名な景観である。
人形供養碑

 清水観音堂に安置されている子育観音は、子供に関するさまざまな願いをもつ人々の信仰を集め、願い事が成就した際には身代わりの人形を奉納する。毎年9月25日には奉納された人形を供養する行事がある。  
 それらの人形を回向し供養するために人形供養碑が建てられた。

不忍池と不忍弁天堂


 不忍池  不忍弁天堂

不忍池
 不忍池は、かつて上野台地と本郷台地の間を忍ヶ丘(しのぶがおか)と呼んでおり、この地名にちなんで「不忍池」となったといわれている。ただし、周囲に笹が多く茂っていたことから篠輪津(しのわず)が転じて不忍になったという説や、ここで男女が忍んで逢っていたからという説(『望梅毎談』)もある。
 不忍池は、蓮花の名所としても知られ、早朝に訪れて開花を鑑賞する人たちもたくさんいる。

不忍弁天堂
 寛永二年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、東叡山寛永寺を創建した。天海僧正は、松山藩主水谷伊勢守勝隆とはかり、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島(ちくぶしま)に因んで、池中に中之島(弁天島)を築き、のち竹生島の宝厳寺の弁財天を勧請し弁天堂を建立した。
 東京大空襲で焼失してしまったため、現在のものは昭和三十三年(1958)に再建したものになる。

五条天神社


 五条天神社   五条天神社

 十二代景行天皇の時代に、日本武尊が東夷征伐の折り、上野忍ヶ丘を通ったときに薬祖神二柱にご加護を頂いたことを感謝し薬祖神二柱を祀ったことに創始とするとされています。以来、東の大洗磯崎神社、西の少彦名とともに三薬祖神の一つとして敬われてきました。
 大己貴命と少彦名命の二柱の神様は、兄弟の緑を結び、共に平和な日本の国を創ることに努力し、特に疫病や耕病に苦しむ人々を助けて、薬を作ることを教え、病を治す治療の方法を授けました。
 少彦名命は、薬のほかにも酒の造り方もひろめたので酒業の祖神としても有名で、両神は古くからわが国の医薬の祖神として尊崇されてきました。
 寛永十八年(1641)、歌道の租として祀られていた菅原道真が後に合祀され、下谷天満宮といわれていました。瀬川屋敷は、後に五条天神社門前町となり、五条町となった。
 社殿は、大正十三年に現在の位置へ移った。


 江戸三大天神は、五條天神社と亀戸天神社、八王子の谷保天神社の三社とされます。谷保天神は郊外にあり、参詣途中で日が暮れてしまうので、野暮天神といわれ、野暮天の語源となったといわれています。

花園稲荷神社

 花園稲荷神社
 創祀不祥。
 承応三年(1654)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ(家光の命とも言われている)廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としました。
 正式名称は忍岡稲荷で石窟の上にあった事から穴稲荷ともいわれている。明治六年に花園稲荷と改名。
 祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子で、伊勢神宮・外宮の神である。左奥の社は、上野・寛永寺建立時、忍岡の狐の居場所として洞を造り、祀ったという社である。
 幕末、彰義隊の穴稲荷門の戦の場所としても有名。

上野 時の鐘

 
上野 時の鐘
 寛文六年(1666)柏木大助が幕府の許可を受けて設置。その後数度の改鋳され、現在のものは、天明七年(1787)谷中感応寺(現在の天王寺)境内で改鋳されたもの。
 時の鐘は江戸時代、時を知らせるものであった。当時江戸市中には日本橋石町、浅草、上野、本所、横川町、市ヶ谷八幡、目黒不動、赤坂田町、四谷天竜寺など9カ所の時鐘があった。
 中でも浅草、上野の鐘は芭蕉の句 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名である。
 現在でも朝・夕6時と正午に昔ながらの音色を聴かせてくれる。

大仏山パゴダ


 大仏山パゴダ   大仏山パゴダ 大仏の顔


 最初の大仏は越後村上藩主の堀直寄が、寛永八年(1631)1丈6尺(約4.8m)の粘土製の釈迦如来坐像を創建したが、正保四江年(1647)の地震で倒壊してしまった。
 明暦−万治年間(1655〜1660)には、木食僧浄雲が江戸市民からの浄財で、青銅製の釈迦如来坐像を造立。その後、元禄十一年(1698)輪王寺宮公弁法親王が、像を風雨からまもるための仏殿を建立。天保十二年(1841)の火事で大仏、仏殿ともに被害を受けたが、一年半後に堀直寄の子孫の直央が修復し、仏殿は幕府が担当した。さらに安政二年(1855)の地震で大仏の頭部が倒壊したが、ふたたび堀家が修復した。
 明治六年、上野公園が開設されるにあたり仏殿が取壊され、大正十二年の関東大震災では大仏の面部が落下。第二次世界大戦時には体と脚部を供出したため、面部のみが上野寛永寺に遺った。寛永寺では昭和四十七年に当場所に壁面を設け、ここに「上野大仏」として御顔をレリーフ状に奉安した。

上野 東照宮


上野 東照宮


 上野東照宮は、元和二年(1616)二月駿河城に徳川家康を見舞いに赴いた、藤堂高虎、天海大僧正が危篤の家康の病床で末永く鎮魂出きる場所を造って奉ってほしいとの遺言をうけ高虎の屋敷領地であった上野の山に、寛永四年(1617)本営を造宮した。
 正保三年(1646)には、正式に東照宮の宮号を受け、慶安三年(1650)には三代将軍家光が、社殿(金色殿)を造形し、翌年4月に完成し、以後江戸の象徴とした。
 上野東照宮には家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られている。


銅燈籠銅燈籠
 東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行するとき浄火を目的とするもの。
 照明器具として用いない。浄火は神事・仏事に使用する清めた火。
 燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。
 火袋下部の長い部分を竿と言い、ここに銘文を刻むことが多い。 これらの銅燈籠は、諸国大名が東照大権現霊前に奉納した物。
 竿の部分には、寄進した大名の生命と官職名・奉納年が告示されている。
 それによると、伊勢国津藩主藤堂高虎奉献の寛永五年(1628)銘一基をはじめ、慶安四年(1651)正月十七日奉献二基。同年四月十七日奉献四十五基、同年孟夏十七日奉献二基となっている。慶安四年四月十七日東照宮社殿落慶の日の奉献数が最も多い。

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