洗足池、雪谷の歴史散歩


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洗足池
 洗足池は、武蔵野台地南端の湧水をせきとめた池で、古くは「千束の大池」と呼ばれ、灌漑用水として利用されていました。
 また、1282年日蓮が身延山から常陸国(茨城県)へ湯治に向かう途中ここに立ち寄り、池の水で手足を洗ったという伝説が広まってからは「洗足池」の名で知られるようになりました。この伝承が、「千束の池袈裟掛松」として広重の絵になっています。
 この洗足池畔に、江戸無血開城の立役者である勝海舟が、かつて別邸があり、海舟は幕末、新政府軍の本営が置かれていた本門寺に西郷隆盛を再三訪ねているが、その往復には表通りの東海道を避けて、裏筋の中原街道を選んでいた。その往来の途中で、風光明媚な洗足池に感嘆し、池畔の茶店で食事することを好んだといいます。
 海舟がここに構えた藁葺の別邸は、戦後まで残っていたが、失火で焼けてしまいました。
 海舟は明治32年に77歳で没するが、生前愛した洗足池の池畔に葬るよう遺言し、いまはその墓所の隣には、西郷隆盛の留魂碑が並んでたっています。



 「千束八幡神社」 と 「名馬池月」

千束八幡神社 
 千束八幡神社(せんぞくはちまんじんじゃ)は、洗足池の西のほとりに鎮座し、860年(貞観2年)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請された古社である。
 また、源頼朝の旗揚げ伝説も残っており別名「旗揚げ八幡」とも呼ばれている。
 1180年(治承4年)、安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝がこの地に宿営したところ、突然現れた駿馬で、頼朝軍はこれを吉兆とし、旗を差し上げ大いに喜んだという。
名馬 池月


 
 馬体の白い斑点が、あたかも池に映る月影のようだったので「池月」と命名され、宇治川の合戦では、佐々木高綱を乗せ、梶原景季が操る名馬「磨墨」と先陣を争い、一番乗りの功名を立てたと伝えらるている。
 このときのライバルであった「磨墨」を葬った場所と称する所は日本各地にあり、東京都大田区南馬込3-18-21 にも磨墨塚と称す塚がある。

海雲寺

海雲寺

 「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。



 「勝海舟夫婦墓所」 と 「西郷隆盛留魂碑」

勝海舟夫婦墓所
 洗足池公園の東側にある勝海舟夫婦の墓所。
 勝海舟は晩年、洗足池の風光を愛し、この地の別荘「洗足軒」を構え、没後は遺言によって別荘裏のこの地に葬られた。妻の民子の墓は、はじめ青世間墓地にあったが、後にここへ移された。
 墓所には夫婦の墓のほか、榎木武揚や嘉納治五郎ら海舟と縁のあった友人・知人が建立した水盤等が置かれている。
西郷隆盛留魂碑





 
 西郷隆盛留魂碑は、明治12年(1879)に勝海舟が私財を投じて建碑したものです。
 もとは東京府南葛飾郡上木下川の浄光院境内に置かれていたが、荒川の回収・河川敷工事(1913)に、勝海舟夫婦が眠るここ洗足池畔へ移されました。
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妙福寺

妙福寺 袈裟掛松妙福寺
 
 1282年日蓮が身延山から常陸国(茨城県)へ湯治に向かう途中、洗足池のほとりで休息した際に、袈裟を掛けた老松「袈裟掛松」があったと伝えられる。 
 この老松は、江戸末期に安藤広重が「名所江戸百景」のひとつとして描いたほどの名松だったという。

中原街道改修碑

中原街道改修碑
 かつてこの付近には急な坂が多く、中原街道の交通の難所とされていた。そこで地元の融資が中心となり、大正6年(1917)から中原街道(沼部・石川町・千束地区)の改修工事が行われ、同12年に完了した。碑は、工事の完了を記念して、地元有志らが建立したもので、当時の土木工事の様子を伝えている。

庚申塔

庚申塔
 元は延宝6年(1678年)に建てられ、文化11年(1814年)再建。中原街道から九品仏に至る道の分岐点に、道しるべを兼ねて建てられたもの。江戸時代後期の特色を持つ角柱型の文字塔です。区指定文化財。

「雪々谷八幡神社」 と 「横綱大鵬関の出世石」

雪々谷八幡神社
 雪ヶ谷八幡神社は、雪谷の里の鎮護神として450年以上もの歴史を持っています。
 境内には大田区指定文化財の庚申供養塔群、御霊を祀る斎霊殿や、昭和の名横綱・大鵬の手形が刻まれた出世石などがあり、休日は多くの人が参拝されています。また、毎年9月には街をあげて「宵宮祭」、「例大祭」が催され、境内はたくさんの人たちで活気にあふれています。横綱大鵬関 出世石
 



 
 大鵬関が、まだ序二段の頃、神社の境内で氏子の子供達に相撲の稽古をつけていました。
 そして異例の出世をとげ、文字通り「心」、「技」、「体」の三位一体を兼ね備え「不世出の大横綱」と称されるようになり、横綱大鵬は「これは雪ヶ谷八幡神社の御加護の賜物である」と感謝し、雪々谷神社に『出世石』とかいた書を奉納した。それを、氏子の人々が石に刻み現在の『出世石』が出来たそうです。


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