「千束八幡神社」 と 「名馬池月」
千束八幡神社(せんぞくはちまんじんじゃ)は、洗足池の西のほとりに鎮座し、860年(貞観2年)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請された古社である。
また、源頼朝の旗揚げ伝説も残っており別名「旗揚げ八幡」とも呼ばれている。
1180年(治承4年)、安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝がこの地に宿営したところ、突然現れた駿馬で、頼朝軍はこれを吉兆とし、旗を差し上げ大いに喜んだという。
馬体の白い斑点が、あたかも池に映る月影のようだったので「池月」と命名され、宇治川の合戦では、佐々木高綱を乗せ、梶原景季が操る名馬「磨墨」と先陣を争い、一番乗りの功名を立てたと伝えらるている。
このときのライバルであった「磨墨」を葬った場所と称する所は日本各地にあり、東京都大田区南馬込3-18-21 にも磨墨塚と称す塚がある。
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「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。
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「勝海舟夫婦墓所」 と 「西郷隆盛留魂碑」
洗足池公園の東側にある勝海舟夫婦の墓所。
勝海舟は晩年、洗足池の風光を愛し、この地の別荘「洗足軒」を構え、没後は遺言によって別荘裏のこの地に葬られた。妻の民子の墓は、はじめ青世間墓地にあったが、後にここへ移された。
墓所には夫婦の墓のほか、榎木武揚や嘉納治五郎ら海舟と縁のあった友人・知人が建立した水盤等が置かれている。
西郷隆盛留魂碑は、明治12年(1879)に勝海舟が私財を投じて建碑したものです。
もとは東京府南葛飾郡上木下川の浄光院境内に置かれていたが、荒川の回収・河川敷工事(1913)に、勝海舟夫婦が眠るここ洗足池畔へ移されました。
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妙福寺
1282年日蓮が身延山から常陸国(茨城県)へ湯治に向かう途中、洗足池のほとりで休息した際に、袈裟を掛けた老松「袈裟掛松」があったと伝えられる。
この老松は、江戸末期に安藤広重が「名所江戸百景」のひとつとして描いたほどの名松だったという。 |
中原街道改修碑
かつてこの付近には急な坂が多く、中原街道の交通の難所とされていた。そこで地元の融資が中心となり、大正6年(1917)から中原街道(沼部・石川町・千束地区)の改修工事が行われ、同12年に完了した。碑は、工事の完了を記念して、地元有志らが建立したもので、当時の土木工事の様子を伝えている。 |
庚申塔
元は延宝6年(1678年)に建てられ、文化11年(1814年)再建。中原街道から九品仏に至る道の分岐点に、道しるべを兼ねて建てられたもの。江戸時代後期の特色を持つ角柱型の文字塔です。区指定文化財。 |
「雪々谷八幡神社」 と 「横綱大鵬関の出世石」
雪ヶ谷八幡神社は、雪谷の里の鎮護神として450年以上もの歴史を持っています。
境内には大田区指定文化財の庚申供養塔群、御霊を祀る斎霊殿や、昭和の名横綱・大鵬の手形が刻まれた出世石などがあり、休日は多くの人が参拝されています。また、毎年9月には街をあげて「宵宮祭」、「例大祭」が催され、境内はたくさんの人たちで活気にあふれています。
大鵬関が、まだ序二段の頃、神社の境内で氏子の子供達に相撲の稽古をつけていました。
そして異例の出世をとげ、文字通り「心」、「技」、「体」の三位一体を兼ね備え「不世出の大横綱」と称されるようになり、横綱大鵬は「これは雪ヶ谷八幡神社の御加護の賜物である」と感謝し、雪々谷神社に『出世石』とかいた書を奉納した。それを、氏子の人々が石に刻み現在の『出世石』が出来たそうです。 |
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