「海雲寺」と「品川の荒神さん」と「地蔵になった平蔵」

海雲寺は鎌倉中期の建長三年(1251)僧不山によって開かれ、はじめは「庵瑞林」といい、臨済宗の寺院で海晏寺境内にあった。慶長元年(1596)海晏寺五世分外祖耕(ぶんがいそこう)大和尚を開山とし曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺になった。
正面2堂のうち、右側が本堂で本尊十一面観音像を安置し、左側が荒神堂で千躰荒神を祀っている。江戸時代から「品川の荒神さん」として人々に親しまれ、火と水、台所の神様として親しまれています。
江戸の末1860年頃、鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた3人連れの乞食がいた。その一人平蔵は、ある日多額の金を拾ったが、落とし主を探し、当然の事として金を返し、お礼の小判を断った。その事を知らされた仲間の者は、金を山分けにすれば三人とも乞食をやめて暮らせたのにと腹を立てて、正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった。これを聞いた金の落とし主である仙台屋敷に住む若い侍は平蔵の遺体を引き取り、青物横丁の松並木の所に手厚く葬り、そこに医師の地蔵尊をたて、ねんごろに供養し続けた。明治32年10月、京浜電車が開通する事になったが、あいにくその線路に地蔵尊の土地がかかり、時の海雲寺住職横川得諄和尚が、菩薩のような功徳の君子平蔵を長く社会の木鐸たらしめんと願望して、海雲寺境内に移してもらい回向した。 |

関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。
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海晏寺

「鮫洲」という地名は、品川沖に現れた鮫の体内から観音像の木像が出現したという話を、北条時頼が聞きつけ、時頼の命によってこの地に伽藍が建立され、本尊として聖観音が安置された。これが海晏寺の草創伝説で、「鮫洲」の由来とされている。
海晏寺は、江戸時代広大な寺域を持ち、紅葉の名所であった。
墓地には、幕末の賢君としてしられる松平春嶽や、岩倉具視ら、いわゆる維新の元勲の墓がある。 |
天妙国寺

「妙国寺縁起」によると、弘安八年(1285)、日蓮大聖人門弟中老の天目上人によって創建された。
徳川家康が江戸に入ったとき、妙国寺に宿泊したのが縁で、将軍家と結びつきが深く、徳川家光からは五重塔を受け取ったが、慶長十九年(1614)大風で倒壊したという。
本堂裏の墓地へ廻ると、明治の浪曲師桃中軒雲右衛門はじめ、戦国時代の剣術師伊藤一刀斎、鳶頭のお祭り佐七などの墓がある。 |
「品川寺」

大同年間(806〜810)に開創された品川で最も古いお寺です。本尊「水月観音」は、弘法大師空海上人が東日本を教え、導いた時、この地の領主、品河氏に授け、以来、応永二年(1395)品河左京亮の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利・上杉の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。
その後、太田道灌が、この地に勢力を伸ばすと、道灌は「水月観音」を信仰し、あわせて自分の持仏である「聖観音」像をここに移し安置しました。そして、長禄元年(1457)道灌は、江戸城を築き、城に移るとき、この地に伽藍を建立し、「観音堂」を「金華山普門院大円寺と号しました。 不幸にも、永禄九年(1566)、甲州の武田信玄が小田原の北条氏政を攻めたとき、北条氏の支配下にあった品川一帯は、焼き払われ、観音堂も焼かれ、「水月観音」像は、甲州に持ち出されました。しかし、持ち帰った二人の武士は、まもなく発狂し、それを聞いた信玄は、あわてて、水月観音像を品川の観音堂の地に戻したと伝えられています。
江戸時代に入ると、弘尊上人が、この草堂に住持し、「水月観音」像を奉持、寛文元年(1652)四代将軍・徳川家綱公により寺領4800坪を拝領し、太田一族の外護のもと、一大伽藍を建立し、寺号を「金華山普門院品川寺」と改めました。後に山号は「海照山」となり、太田摂津守も、寺領を寄進し、以来、太田備中守、松平讃岐守、松平阿波守の三家の外護を受け、お寺は大きく栄えました。
現在、境内には、イチョウの樹(品川区認定天然記念物二号)や七福神の石造、英霊堂などがあります。
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品川寺 江戸六番地蔵の第一番

宝永五年(1708)9月、江戸深川の僧、地蔵坊正元の発願によって浄財が集められ、座高2メートル75センチの青銅の地蔵菩薩座像が、江戸・神田鍋町の鋳物師・太田駿河守正義によって鋳造され寄進されました。 この地蔵菩薩座像は、江戸に出入りする六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置され、「江戸六地蔵」と呼ばれました。
品川寺には、その第一番、東海道の尊像として、「天下安全、仏法繁栄、衆人快楽」の祈願のもと奉安されています。また菩薩像の全身と台座には、建立資金を寄付した江戸庶民の名が刻まれています。
江戸六地蔵 銅造地蔵菩薩
一番目 品川寺 (東海道)
二番目 東禅寺 (奥州街道)
三番目 太宗寺 (甲州街道)
四番目 真性寺 (中山道)
五番目 霊巌寺 (水戸街道)
六番目 永大寺 (千葉街道)
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品川寺 鐘楼

品川寺の大梵鐘は、品川寺弘尊上人の発願によって、明歴三年(1657)9月18日に鋳造されたもので、京都三条・大西五郎左衛門の作です。鐘面には京都七条の大仏師・康斎が6体の観音像を浮き彫りにし、さらに観音経一巻が陰刻されており、「武蔵風土記」「江戸名所図絵」などに記されているように、「世にまれなる梵鐘」として、今日に伝えられています。
また、江戸時代の末期、海外に搬出されたまま行方不明になり、昭和になってからようやくジュネーブのアリアナ博物館に保管されていることがわかった。このことから「洋行の帰りの鐘」とも呼ばれている。
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心海寺

徳川家康の家臣、本多九八郎忠峯が開基した浄土真宗の寺院。
忠峯は小田原城攻めの合戦で負傷して以来仏門に入った。 |
妙蓮寺

太田道灌が江戸城を完成させた長禄元年(1457)に妙蓮寺も開創されたといわれている。
墓地には、新吉原の遊女で仙台藩主伊達綱宗の愛妾だったといわれる薄雲太夫などの墓がある。
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海蔵寺

「品川宿の投込寺」として知られている海蔵寺。鈴ヶ森刑場で処刑された人や、品川宿の遊女などの中で引き取り手がない場合、ここに葬られた。
墓地の中央に「首塚」があり、ここは処刑された罪人の首が埋葬されており、お参りすると頭痛が治るということから「頭痛塚」とも呼ばれている。 |
清光院 奥平家墓所

墓域には、塀に囲まれた奥平家の大名墓地がある。奥平家は徳川家譜代の大名で、家康の長女亀姫を妻とした。藩祖家昌夫婦の堂々とした五輪塔を中心に、88基の五輪塔や笠塔婆型の墓碑が並ぶ、典型的な大名墓である。
清光院は、もと東海寺の塔頭であったが、維新後に独立した。 |
東海寺 鐘楼

寛永十五年(1638)3代将軍徳川家光が沢庵禅師を請じて建立した臨済宗大徳寺派の寺。広さが4万7千6百坪余り(約18万5千平方メートル)と広大なものだったが、開創のころは、山門も本堂もなく、沢庵屋敷と呼ばれていた。その後、塔頭も次々と建てられ、元禄時代に火災に遭ってからは山門や本堂が整備され、大伽藍になっていった。
「江戸名所記」に浅井了意が「来て見れば三千世界めのまえにくまなかりける東海の寺」と記録するくらい、寺内は名園であったとされる。
現在の仏殿は世尊殿とよばれ、昭和五年に建てられた本格的な禅宗寺院建築で、本尊の釈迦三尊像をはじめ帝釈天、閻魔王、達磨大師、地蔵菩薩などの大型の木像が安置されている。また、山門の右手には鐘楼があり、元禄五年(1692)に椎名伊予守良寛によって鋳造されたもので、5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院が、徳川家光の菩提を弔うために寄進したといわれている。 |
沢庵禅師の墓

沢庵禅師は、江戸初期の禅僧で但馬国出石の生まれ。寛永六年(1629)紫衣事件で出羽国に流罪となるが、その後赦され、徳川家光に重用され江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯茶道にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。
天保二年(1645)、「夢」一字の遺偈を書きして没。墓は、無欲恬淡とした生涯にふさわしく自然石の簡素なものである。墓は大正十五年に国の史跡に指定されている。 |
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