目黒不動尊の歴史散歩

 
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目黒不動尊
 
 寺伝では平安時代808年に慈覚大師円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して開創したといわれています。
 古くから「目黒のお不動さん」として親しまれてきた目黒不動は、正しくは「泰叡山瀧泉寺」といい、上野寛永寺を本寺とする天台宗の寺院で、関東で最も古い不動零場で、江戸五色不動の筆頭でもあります。
 1615年に本堂が火災で焼失しましたが、1624年3代将軍徳川家光によって再建され、以後徳川幕府庇護を受け繁栄するようになります。1634年には、53棟におよぶ山岳寺院配置の大伽藍が完成し、「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めていたといわれています。
 境内は台地と平地の境目に位置し、仁王門などの建つ平地と、大本堂の建つ高台の2段に造成されている。仁王門をくぐると正面に大本堂へ至る急な石段がある。石段下の左方には独鈷の滝(とっこのたき)、前不動堂、勢至堂などがあり、右方には書院、地蔵堂、観音堂、阿弥陀堂などがあります。


 「仁王門」と「大本堂」

 
目黒不動尊 仁王門
 左右一対の仁王像、開口(阿)那羅延金剛と閉口(吽)密迹金剛が建っている仁王門は、間一戸の朱塗りの楼門で、階上には韋駄天が祀られています。
 
 仁王門の手前には、比翼塚がり、仁王門をくぐった左手には築地活版製造所の社長で、日本に明朝体活字を普及させた人物である 野村宗十郎銅像があります。 目黒不動尊 大本堂








 台地に建つ大本堂は急な石段を登った先にあり、入母屋造に千鳥破風をもつ大規模な仏堂である。
 第二次大戦の戦災で焼失しましたが、昭和56年にまた再建されました。
 秘仏・十二年に一度、酉年ご開帳 『破邪顕正』の明王として、あらゆる災難厄難を除けて、福となす『福寿開運』の仏 不動明王である。
 

海雲寺

海雲寺

 「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。





 「水掛不動」と「独鈷の滝」

目黒不動尊 水掛不動
 境内の本堂に向かう石段の手前左側に、「独鈷の滝」という小さな滝があり、2体の龍の口から水が吐き出されています。
 1200年前、伝教大師最澄の弟子慈覚大師が瀧泉寺を開いたとき、慈覚大師が持っていた独鈷(とっこ、古代インドの武器に由来する仏具の一種)を投げたところ、その落下したところから霊泉が湧き出したとされ、それがこの滝の名前の由来だそうです。

目黒不動尊 独鈷の滝





 この滝はそれ以後一度も涸れたことがないとされ、池の中に「水掛不動」が奉られ、それにひしゃくで水をかけるとさまざまなご利益があるといわれています。
 

「山手七福神」の恵比寿神

目黒不動尊 恵比寿神 
 目黒不動側から七福神を巡るのが商売繁盛祈願で、覚林寺側から巡るのが無病息災・長寿祈願の御利益があるといわれています。
 恵比寿神が祭られているのは、目黒不動仁王門前の比翼塚の裏手の三福神です。
 

「男坂」と「女坂」

目黒不動尊 女坂 
 急な石段の「男坂」の下には、徳川家光ゆかりの「鷹居の松跡」があり、「女坂」の途中には、1796年造立の「役の行者倚像」があります。
「役の行者倚像」は江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品として、目黒区の指定文化財になっています。
 

比翼塚

目黒不動尊 比翼塚 
 鳥取藩士だったといわれる浪人平井権八は、金を奪ったために鈴ヶ森の刑場で処刑された。その愛人だった吉原の遊女小紫が後を追って自害したという。平井権八の話は、浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)に脚色され、白井権八のモデルとなりました。

地蔵堂

目黒不動尊 地蔵堂
 地蔵尊(無仏時代の救世仏、女性や子供を守る)
 閻魔王・葬頭河の婆(奪衣婆)を祀っています。

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