荏原、小山、西五反田の歴史散歩


 HOME > 品川の歴史散歩 > 荏原、小山、西五反田の歴史散歩
品川区 三谷八幡神社
 文献における「荏原」の初見は、万葉集の東歌で、荏原郡の防人やその妻が詠んだ歌があるほど古い地名です。いまでは、品川区内の町名のひとつにしかすぎないが、もともとは律令制度下の郡名でした。地名は一説に荏胡麻(シソ科の一年草で「え」「しろじそ」「じゅうねん」とも呼ばれます)の繁茂する原に由来すると言われています。
 江戸時代には武蔵国二十二郡の一つで現在の品川、大田、目黒と世田谷の大部分を含んでいました。明治22年に戸越、中延、小山、上・下蛇窪が平塚村となり、昭和元年に平塚町となりましたが、神奈川県の平塚町と混同するため、昭和2年に荏原町と改称し昭和7年に荏原区となりました。

 「小山」は、小山八幡神社のあたりの小高い丘から生じた地名だといわれ、「小山」のなかでも高台になっていた西側を「小山台」と呼んでいたといいます。


 「氷川神社」と「かむろ坂」

 
品川区 氷川神社 桐々谷村の総鎮守。江戸時代初期の元禄年間(1688-1704)にはすでにあったことが記録に残っており、現在の社殿は昭和13年(1938)に建設されたものになります。
 江戸時代この辺りは武蔵野台地の末端にあたり、湧水が多あり、神社本殿下の右側の崖には、かつて「都内七瀑布」の一つに数えられた滝があったといいます。
 また、幕末に勤皇の志士たちが、鉄砲の練習をしたときに標的にしたという「鉄砲石」が残っています。

かむろ坂


 「かむろ坂」は、平井権八と吉原の遊女小紫伝説にちなんだ名称で、遊女小紫の使っていた禿(かむろ)が付近の池に身を投げたことから、この名が起こったといわれています。 
 「かむろ坂」は坂下の商店街が昭和14〜15年頃から「加武呂坂商店街」と称するようになって以降、人々に知られるようになりました。
 名前の由来となった白井権八と相愛の小紫の話は、歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」(うきよつかひよくのいなづま)にもなっており、また春は桜並木が美しく、品川百景の一つにもなっています。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


 「小山八幡神社」 と 「荏原七福神」



小山八幡神社 
 小山八幡神社は、壮健年代は不祥だが鎌倉時代にはすでにここに旧小山村本村の氏神として崇敬されたという。
 この辺りはかつて小山村池ノ谷と呼ばれていたので「池ノ谷八幡神社」ともいわれていて、元禄年間に三谷八幡神社が分社するまでは、小山村全体の鎮守でした。
 小山の名の通り、区内随一の高台(標高35m)にあり遠望良好なため、品川百景に選ばれています。
 
 また、荏原七福神の「大黒天」が安置されています。

摩耶寺


 摩耶寺は、江戸・寛永年間(1661〜73)創立と伝えられる日蓮宗の寺院です。江戸・天保年間(1820〜43)に建てられた摩耶堂に祀られている極彩美の美しい「木造摩耶夫人立像」は、延宝6年(1678)造立、高さ36.9cmの人形様式で、区の有形文化財に指定されています。摩耶夫人は釈迦の母親。
 また、荏原七福神の「寿老人」が安置されています。

安養院

 安養院
 平安時代に創建されたと伝えられる天台宗の寺院。
  墓地には、広島藩浅野家3代藩主、浅野長晟の婦人、称専院の墓があります。墓は五輪塔で、それを取り囲むように7基の婦人を支えていた侍女の観音像に囲まれています。

三谷八幡神社

三谷八幡神社
 鎮座の原由、創立年紀不詳であるが、隣接の小山八幡神社と深い関わりがある。
 江戸時代の始め宗教上の争いから三谷の名主石井助太夫が八幡神像を三谷の出世稲荷社の宮地に遷座鎮祭し三谷地区の氏神とされたといわれています。
 

小山厳島神社

小山厳島神社 東急目黒線洗足駅で下車し、線路沿いを西小山駅方面へ道なりに進むと弁天様あります。
 
 水を守護する神様だと思いますが、特に由緒書きなどはなく不明。


Copyright c2008 tokyo-rekisi, All Rights Reserved.