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旧寛永寺五重塔

寛永八年(1631)、徳川秀忠の病気快癒を願う土井利勝が建立・寄進したが同十六年、薬師堂から出火で類焼したが、同じく土井利勝によってすぐに再建された。それが現在の五重塔である。
塔は、三間五層で、屋根は五層だけが銅板葺、他は瓦葺で、高さは地上から塔上の九輪まで36.36メートルある。初層には、江戸初期の仏像として貴重な四方四仏(東薬師、西阿弥陀、北釈迦、南弥勒)が安置されている。
土井利勝とは、天正元年(1573)生まれ、徳川秀忠誕生と同時にその小姓となり、秀忠に仕えて着実に地位を築き、三代将軍家光のときには、大老となった人物である。
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関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。
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小松宮像

明治四十五年(1912)、文展審査員の大隈氏広の作。
小松宮は鳥羽伏見の戦いの際の征夷大将軍、会津戦争の際には越後口総督を務めるなど戊辰戦争に従軍した。
社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。
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東京都美術館

大正十一年(1922)上野公園で平和記念東京博覧会が開かれた際、福岡県若松の佐藤啓太郎という人の寄付金をもとに、大正十五年(1926)5月1日に開館した。
岡田信一郎設計の大正時代の代表的建築物であったが、昭和五十年(1975)に隣接地に現在の東京都美術館が建てられ旧館は取り壊された。 |
泰楽堂

泰楽堂は、明治二十三年(1890)、東京音楽学校(現東京芸術大学)の講堂兼音楽用ホールとして建造されたものである。
ルネサンス様式の木造2階建てのこのホールは明治中期の代表的建造物であるとともに、最古の音楽ホールでもあり、日本で最初に本格的なパイプオルガンを設置したホールでもある。
老朽化した建物は昭和六十二年に復元され翌年には、国の重要文化財に指定された。 |
旧因州池田屋敷表門

この門は、もと旧因州池田屋敷の表門で丸の内大名小路(現丸の内3丁目)に建てられていた。明治二十四年、芝高輪台町に東宮御所の正門として移建し、のちに高松宮邸に引き継がれ、さらに昭和二十九年、ここに移転して修理を加えたものである。
創建時代は明らかではないが、形式と手法からみて、江戸末期のものである。屋根は入母屋造り、門の左右に向唐破風屋根の番所を備えており、大名屋敷としても最も格式が高い。昭和二十六年には、国の重要文化財に指定された。 |
国立博物館

明治十五年(1882)、第二回内国勧業博覧会場の美術館を改めて、博物館として開館した。
イギリス人ジョサイア・コンドルの設計によるレンガ造りの明治洋風の建物は、関東大震災で損壊したため、昭和十二年(1937)に現在のものが建てられた。
博物館裏の庭園は、旧寛永寺本坊の庭園の面影を今に残す貴重なもので、庭の周りには、春草虜、転合庵、六窓庵、応挙館、九条館などの茶亭が点在している。 |
国立科学博物館

明治四年(1871)本郷湯島の聖堂で、日本か国の物産を集め、一般公開したことから始まる。その時の博覧会出品物のほか、自然科学分野の資料を集めて、昭和六年(1931)に科学博物館として設立された。
日本で唯一の国立の総合科学博物館で、自然誌、理工学に関する資料が幅広く展示されている。 |
輪王寺(両大師堂)

輪王寺(両大師堂)は、寛永寺を開山した慈眼大師天海僧正を祀るお堂として正保元年(1644)に建立され、後に天海僧正が尊崇していた平安時代の元三慈恵大師を祀ることにより両大師堂と呼ばれるようになった。
旧寛永寺本坊表門
輪王寺(両大師堂)の右隣りに、旧寛永寺本坊の表門がある。寛永年間に建造された山門で、黒塗りの古風荘重な門であり、上野戦争の弾痕も残っている。
明治十一年、帝国博物館(現、東京国立博物館)が開館すると、その表門として使われ、関東大震災後、現在の本館を改築するにともない、現在地に移建した。国の重要文化財に指定されている。
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徳川家綱霊廟勅額門

四代将軍家綱は、慶安四年(1651)四月父・家光の死に伴って、わずか十歳で将軍の座につき、延宝八年(1680)五月八日に三十九歳で没した。法名を厳有院よいう。
病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。時代は家綱の襲職直後に起こった由井正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎は、その霊所と共に、これらの災いを免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺。
なお、このうち水盤舎は延宝八年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和三十二年の改修時に発見された墨書銘によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。 |
徳川綱吉霊廟勅額門

五代将軍綱吉は、延宝八年(1680)五月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永六年(1709)一月十日に六十三歳で没した。法名を常憲院という。綱吉ははじめ、善政を行い「天和の治」と賛えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
元禄十一年(1698)九月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。また、それに伴って先聖殿(現・湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
綱吉の霊廟は宝永六年の十一月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみてももっとも整ったものの一つであった。ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その霊廟と共にこれら災を免れた貴重な遺構である。勅額門の形式は四脚門、切妻造、前後軒唐破風付、銅瓦葺である。 |
天璋院篤姫 墓所

NHK大河ドラマで人気の「篤姫」。
薩摩藩主島津斉彬に見込まれて養女になり、十三代将軍家定に嫁いだ人物である。
家定に先立たれ天璋院(てんしょういん)となった篤姫は、明治十六年(1883)死去。徳川家菩提寺の上野寛永寺に眠っている。
墓所は、篤姫の遺徳をしのんで将軍家定の墓所の隣につくられ、そばには篤姫の好物だったというビワの木が植えられてる。
墓所は、基本的には一般公開されていない。 |
寛永寺

天台宗の関東総本山で、寛永二年(1625)徳川三代将軍家光の時、天海僧正により建立。創建当時は、江戸城の鬼門を守る祈願所であったが、のちに芝増上寺とともに将軍家の菩提所となった。現在の本堂は、明治十二年に天海僧正ゆかりの地川越(埼玉県)の喜多院から移築された薬師堂で寛永十五年(1638)の建造物といわれている。
徳川家の菩提寺として長らく栄華を誇ったが、慶長四年(1868)彰義隊の上野戦争で、ほとんどを焼失した。
寛永寺を、祈願寺であるだけでなく菩提寺にしたのは三代将軍家光であった。家光は遺言で自分の葬儀は寛永寺で、遺体は日光に葬るよう指示した。すべて尊敬する家康と天海のあとを追ったのである。これ以来寛永寺は徳川家の菩提寺となり、霊廟には四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の墓がある。
了翁禅師座像
秋田県雄勝郡八幡村で寛永七年(1630)に生まれた了翁は14歳の時に一切経を納める経堂を建てようと初願した。諸国を修行しているうちに、肥前の興福寺の僧侶から万病に効く霊薬の製法を授かった。寛文の初め、上野池之端仲町に店を開き、「錦袋円」の名前で売り出したところ、大当たりして、3千両の利益を得て、このお金で早速不忍池中ノ島に念願の経堂を建てた。その後、寛永寺境内に土地をもらい、池にあった経堂を移し、あわせて勧学寮も造った。寮は俗に百軒長屋といわれ、千人の僧侶の学問所と寮舎となった。文庫、講堂もあり、和漢の書籍教典など三万余巻を収め、僧侶達の図書館ともなった。わが国図書館の元祖ともいわれるゆえんである。
尾形乾山墓碑.乾山深省蹟
琳派の創始者、尾形光琳の弟である。寛文三年(1662)京都の呉服商・かりがね雁金屋の三男として生まれた。京焼史上最高の名人、野々村仁清に学んだ後、三十七歳の時、京の乾(北西)にあたる鳴滝に窯を開き、乾山と号した。深省の別号がある。画業のほか、書.茶をよくし、特に作陶は有名で、輪王寺宮公寛法親王に従って江戸に下り、入谷に窯を開き、その作品は「入谷乾山」と呼ばれた。また、輪王寺宮の命によって京の鶯をこの辺に多く放って根岸名物にしたのも乾山という。光琳の画風を慕う酒井抱一によって、文政六年、顕彰碑が建てられた。入谷交差点の一隅に「入谷乾山窯元碑」がある。
虫塚
虫塚は、伊勢(現三重県)長島藩主であった増山雪斎の遺志により、写生に使った虫類をなぐさめるために、文政四年(1821)に建てられました。雪斎は、江戸の文人太田南畝など広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。自身も清朝の南蘋派の写実的な画法に長じ、花鳥画を多く残し、中でも虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、その精緻さと正確さにおいて、殊に有名です。
慈海僧正の墓
墓石の正面中央に、聖観音菩薩の像を彫り右側には「当山学頭第四世贈大僧正慈海」左側に「山門西塔執行宝園院住持仙波喜多院第三世」、背面に「元禄六年癸酉二月十六日寂」と刻む。
慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭には凌雲院の住職が就任することを慣例としたという。学頭は、また門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、学頭の名のとおり宮や一山の学問上の師でもあつた。慈海版として知られる『法華経』『薬師経』の翻刻や『四教義算注』『標指鈔』三十巻の著作がある。
寛永元年(1624)目黒で生誕。七十歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和三十三年東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
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寛永寺を動画で紹介
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