小石川後楽園
寛永六年(1629)水戸徳川家初代藩主・頼房が築いた庭園を、2代光圀(水戸黄門)が改修して完成させた。中国の儒学者、朱舜水によって設計され、円月橋や西湖堤など中国の風物を取り入れた回遊式築山泉庭園。
現在隣には東京ドームがあり、歴史と近代建物が並び立っています。
小石川後楽園は文化財保護法によって国の特別史跡・特別名勝に指定されており、この二つの指定を受けているのは、浜離宮恩賜庭園、金閣寺など、ごく限られています。
⇒小石川後楽園の場所はこちら (楽天 旅ノート)
|
関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。
|
こんにゃく閻魔 源覚寺
「こんにゃく閻魔」として親しまれている源覚寺。創建は、寛永元年(1624)で浄土宗の寺である。
信心深い目を病んだ老婆に閻魔王が己の右目を与え治したという。老婆は感謝しこんにゃくを供えつづけたという言い伝えから眼病治癒の「こんにゃく閻魔」として庶民から信仰を集めていった。
また、境内には歯痛緩和のお地蔵さん「塩地蔵」。
小石川七福神の一つである毘沙門天。
昭和十二年サイパン島「南洋寺」に寄進したが戦後無くなってしまい、その後アメリカで発見され返還された「汎太平洋の鐘」が安置されている。
|
善光寺
伝通院の塔頭で、慶長七年(1602)に創建。
はじめは、縁受院という名であったが、明治十七年(1884)善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。
またこの周辺は、幸田露伴、徳田秋声、島木赤彦ら文人、歌人が住み活躍していた。 |
沢蔵司稲荷
わずか三年で浄土宗の奥義を極めた伝通院の修行僧、沢蔵司。
沢蔵司の本来の姿は、千代田城の稲荷大明神であった。修行僧の身となって浄土宗を学び世話になったので、伝通院の守護になろうと、学寮長の夢枕にたったという。そこで、慈眼院内に祀られたという。
|
伝通院
徳川家康の生母、於大の方を葬った徳川家の菩提寺。
家康は、はじめは菩提寺である芝の増上寺に母を埋葬するつもりでいたが、「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人が庵を開いた故地に新たに寺を建立されるように」との増上寺十二世観智国師の言上を受けて、伝通院の建立を決めたという。
ここには、於大の方をはじめ徳川家ゆかりの女性や子供たちの墓が建てられている。
明治に入ると、徳川家からの庇護がなくなり、廃仏毀釈運動もありその力は衰えていくこととなるが、明治二十三年(1890)に境内に移した浄土宗の学校を元に淑徳女学校(現在の淑徳学園高等学校・中学校)を創立し教育にも力を注いだ。 |
福聚院
安永三年(西暦1774年)の開山。
小石川七福神の大黒天。鎌倉時代(1185〜1333年)の作と伝わる。本堂の奥に眠る木造の本尊で、文京区の有形文化財となっている。
それとは別に、ちょうど本堂の向かいのところにも大黒天が安置されています。
とうがらし地蔵は、明治中期、医者からとうがらしをやめるよういわれていたぜん息のおばあさんが大好きなとうがらしをやめられずに食べてしまい亡くなってしまった。
そこで近所の人があわれんで地藏尊を造りとうがらしを供えたところ、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治ったという。このことからお礼にとうがらしを供えるようになったと伝えられていています。
|
北野神社
鎌倉時代、源頼朝が奥州を討とうとしていた途中、北野神社にあった岩に腰掛け休息した際に、夢に牛に乗った菅原道真公が現れ「二つの喜びがある」と告げ、夢が覚めるとかたわらに牛の形をした石があったという。その秋に長男の頼家が誕生し、翌年には平家を滅亡させた。このことを喜んだ頼朝がこの岩を祀り牛天神を創立した。
ご祭神は、学問の神様である菅原道真である。
右写真の「ねがい牛」に願いをかけると願いごとが叶えられると多くの人たちから信仰されています。
境内には、中島歌子の「雪中竹」の歌碑があります。
歌子の死後、明治四十二年(1909)に弟子たちによって建てられました。 |
神田上水路
神田上水路は、徳川家康の命を受け、井之頭池を水源として大久保主水が開いた、わが国最古の上水である。 |
徳川慶喜終焉の地
徳川家最後の将軍徳川慶喜が明治三十四年(1901)以後住んでいた地である。景気はこの地を愛しそのほとんどは、趣味の生活を送っていたという。大正二年(1913)に没した。 |
⇒北野神社の場所はこちら (楽天 旅ノート) ⇒伝通院の場所はこちら (楽天 旅ノート)
|
Copyright c2008 tokyo-rekisi, All Rights Reserved. |