瀬田、玉川、岡本の歴史散歩


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 昔から多摩川は度々洪水にみまわれ、村が多摩川で分断されることが多かった。瀬田も多摩川により分断され、かつては全域が武蔵国荏原郡に属していたが、明治四十五年(1912)に郡境が多摩川上に設定され、以降右岸地域は橘樹郡(後に川崎市)に属すこととなった。
 昭和七年(1932)東京市世田谷区となり、六郷用水(現在の丸子川)を境に北側が玉川瀬田町、南側が玉川町となり、後に玉川町が鎌田町、岡本町各町域と境界変更を行うこととなる。
 現在は、二子玉川駅周辺は開発がどんどん進められており一層この周辺はにぎわいを深めていくこととなると思われるが、六郷用水周辺には緑もたくさんあり、自然と人が共存する素敵な街になっていくものと思われる。


法徳寺



 二子玉川駅から行善寺坂を上り、途中の行火坂とかかれた標識を右に行くと法徳寺があります。
 永禄元年(1558)法阿因公和尚によって開山した浄土宗のお寺である。
 明治初期、寺子屋の師であった大塚貞三郎のために瀬田、用賀、岡本などの門弟一同が建てた記念碑「筆塚の碑」が境内を入って左側に建っている。

海雲寺

海雲寺

 「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。


 行徳寺



 「玉くしけ二子のわたり明ぬやと見しや鵜舟の篝也けり」と行徳寺からの風景を詠んだ詩人の太田子徳。
 高台にたつ行徳寺からみる風景は江戸時代から有名で玉川八景のひとつとなり、将軍も立ち寄ったという。
 長崎伊予守重光の開基で、墓地には長崎家代々の墓所が建っている。
 山門を入ると左に猫塚と書かれた碑が目に入ってくる。これは、三味線の皮につかった猫の供養碑だという。

玉川大師(玉真密院)




 玉川大師は大正十四年、竜海阿闍梨の開基によるものです。弘法大師を本尊とする大師堂と、地下霊場の照金剛殿は、昭和九年に開基竜海阿闍梨が完成させたものです。
 本堂から入る地下霊場は「秘仏大日如来さま」の胎動を表しているそうです。順拝通路は100メートルに及び、四国88カ所西国33番両霊場のお大師さま・観音さまを安置しています。

 実際に地下の霊場に入りましたが、はじめは本当に真っ暗な中を巡る為、恐怖を覚えますが、中のお大師さまなどを回るにつれ、心が清浄されていく気持ちになります。地下霊場での撮影はご遠慮くださいと書かれていたため、写真がありませんので、ぜひ一度足を運んでみてください。

瀬田玉川神社




 永禄二年(1559)の創建、もとは御嶽神社といわれ、古墳の上に建てられています。江戸時代に長崎四郎左衛門が社殿を造営したという。
  境内には樹齢7〜800年の黒松がありましたが、昭和四十一年の台風で惜しくも折れてしまいました。今はその幹が御神木として祀られています。

 瀬田玉川神社の近くにある玉川寺は、昭和七年建立の日蓮宗の寺で、今はもうありませんが、玉川遊園地の中にあったそうです。

慈眼寺


      
 徳治元年(1306)印定音によって草創。
 慈眼寺が草創された頃の瀬田村は、素朴な文化をもつ地域で、この地方文化に最も貢献したのが、修験行者であり、仏徒で、彼らの活躍は民衆生活の隅々にまで浸透していったそうです。
 その後、長崎四郎左衛門信施を得て、法印栄音が現在の地に移し、大日如来を本尊として開基しました。

武家屋敷門


 この武家屋敷門は、旧岡山藩城代家老伊木家の下屋敷の表門であった。荒手屋敷とも呼ばれ、岡山城の後楽園の下手の中州にあった。
 河川改修工事の際に、鮎川義介が譲り受け、昭和三十八年に自宅の表門として使用していたが、昭和五十三年に玉川テラス建設時に現在地に復元保存された。

静嘉堂文庫美術館


 静嘉堂は、旧三菱財閥の岩崎彌之助と小彌太の父子二代によって設立され、国宝7点、重要文化財83点を含む凡そ20万冊の古典籍と5,000点の東洋古美術品を収蔵しています。
 静嘉堂の名称は中国の古典『詩経』の句からきているそうです。

 岡本公園民家園




 この一帯はかつて「岡本の紅葉」と呼ばれ玉川八景の一つでした。
 岡本民家園は、茅葺きの民家と白壁の土蔵と農家の建築様式とは違うが古い門が立っています。これらは残されていた江戸時代の建築物を移築して、当時の典型的な農家の家屋敷を再現したものです。
 隣には、岡本八幡神社があり、その石段下には歌手・松任谷由美夫婦が奉納した石燈籠があります。


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