浄真寺(九品仏)
浄真寺は、もとは吉良氏重臣の大平出羽守の居城、奥沢城であった。
奥沢城を三方から囲んでいた水田は「奥沢の底なし田圃」いわれた深田であったという。
小田原の役後同城は廃城となったが、延宝6年(1678)、珂碩上人が同地に浄真寺を開山した。
約3万6千坪の境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂(中品・上品・下品堂)があり、それぞれに3体合計9体の阿弥陀如来像が安置されている。 この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生を表し、これをあわせて九品(あるいは九品往生)という。
この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。
9体の像(九品仏)は珂碩上人の作で、都指定の文化財になっている。また、京都の浄瑠璃寺(九躰寺)ととっもに九品仏像の双璧である。
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「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。
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九品仏駅を降りてすぐ浄真寺の参道が見えてきます。 参道は「二河白道」を表し、火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味しています。長い参道を歩いていくと庚申塔や地蔵が並び、「般舟場」の総門が迎えてくれます。 |
総門を入った右に閻魔像と脱衣婆像を安置した閻魔堂があり、閻魔堂の先に六地蔵が並んでいる。
六地蔵さんは、六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天)の入口に立ち、衆生の苦を救うと言う有り難いお地蔵さんである。
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宝永五年(1708)に建立した鐘楼は、関東でも名楼と誉れ高い。梵鐘は深沢村の谷岡庸重が父母の菩提のために寄進したもので都指定文化財になっています。
毎年大晦日から元旦にかけて、除夜の鐘に遠近より多くの参拝者が訪れます。
境内には天然記念物の大イチョウや樹齢700年以上というカヤの大木、、トチ・高野マキ・菩提樹などがあり、武蔵野の面影を残しています。
また、本堂隣の鷺草園は大平出羽守の息女常盤姫の悲話にちなむもので、7から8月には高さ20から30センチの茎に純白の白い花を咲かせます。 |
「満願寺」 と 「一言地蔵」
文明2年(1470)、吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城の祈願寺として吉良氏により創建され、定栄和尚が開山したと伝えられている。
もとは深沢の兎々呂城(とどろき)内(現在の都立園芸高校)にあったものが、火事で焼失したため現在地に移転している。このときそれまでの山号医王山を現在の致航山と改め、本尊を薬師如来から金剛界大日如来とした。
地蔵堂の地蔵菩薩立像は日本三体地蔵のひとつ「一言地蔵」で、願いをひとこと述べれば成就すると信仰を集めていた。
山門の額は細井広沢筆「致航山」、本堂の「満願寺」額は広沢の子九皇の筆である。
本堂裏には、細井広沢の墓ほか一族の墓所がある。 |
「等々力不動尊」 と 「不動の滝」
平安時代、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人の夢にお不動様のお告げがあり、それに従って、お不動様を背負って東国へ向かった。武蔵野国に入ると、夢に見たのと同じ渓谷が目の前に広がった。覚鑁上人が手に持っていた錫杖で岩を穿つと、そこから清らかな滝が溢れ、その水しぶきの中に金色に輝く三十六童子が現れたという。上人はその中央に、捧持していたお不動様を安置し、堂を建立したと伝えられている。
また、戦国時代には、吉良氏が戦勝祈願所にしていたという。
等々力渓谷は、国分寺崖線の最南端に位置する開析谷で、都内唯一の渓谷である。
等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れていたといわれており、役の行者ゆかりの霊場と伝えられている。
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玉川神社
玉川神社の創建は不詳、はじめは熊野神社といい玉川村の鎮守であった。明治四十年に村内に奉祀されている、神明社、御嶽社、諏訪社の三社を合祀し、同時に地名をとって玉川神社と改称した。商売繁盛・縁結び・延命長寿などのご利益で知られている。
境内には、世田谷区の名木百選のクスノキと耕地整理碑と豊田正治と測量技師の高谷直弘の顕彰碑が立っている。 |
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