神楽坂周辺の歴史散歩


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かくれんぼ横丁
 
 「神楽坂」の由来には、多くの諸説が残っています。@牛込見附の橋のところで祭礼の神輿をとめ神楽を奏でたという説。A高田穴八幡の旅所(祭礼時神輿を安置する所)があり、祭礼で神輿が通るときに神楽を奏したという説。B若宮八幡の社の神楽の音がこの坂まで聞こえたという説。C津久戸明神が田安台から筑土八幡町に移転したとき、この坂で神楽を奏したという説。D赤木神社の神楽堂がこの坂の近辺にあり神楽の音が聞こえてきたという説。
 多くの諸説が残っていますが、いずれにしても神社に奉納する神楽が聞こえる坂から命名されたのではないでしょうか。
 
 江戸時代の安政四年(1857)に「牛込花街」(現在の神楽坂花柳界)が開け、明治以降「山の手一のにぎわい」として発展していきます。特に関東大震災後は、日本橋・銀座方面より商人が流入し、夜店が盛んになり、山の手銀座といわれ一段とにぎわいを増していきました。


善国寺 毘沙門天



善国寺 毘沙門天
 善国寺は、文禄四年(1595)麹町六丁目に創建され、寛政四年(1792)火災にあったことで現在地に移転した。
 「神楽坂の毘沙門様」として江戸時代から信仰を集め、親しまれてきた。毘沙門天像は開山の日惺上人が池上本門寺に入山するとき、関白二条昭実から贈られたものといわれている。甲冑具足に身を固め、左手に宝塔を捧げ、右手に鉾を持ち、足に夜叉鬼を踏まえて立つ姿は勇ましく加藤清正の守仏とも伝えられている。本堂の隣が毘沙門堂で「山手七福神」、江戸3毘沙門の一つ。ご開帳は、正月、五月、九月の寅の日である。
 
 毘沙門天とは、サンスクリット語(インドの古語)では「ビシュラバナ」と表記し、この音写が「ビシャモン」である。言葉としては「全てを聞く」という意味で、古来よりインドで信仰されてきた財宝の神である。

⇒善国寺 毘沙門天の場所はこちら (楽天 旅ノート)

 善国寺周辺は、明治から昭和にかけて「山の手一のにぎわい」となり、縁日の夜店は、東京における夜店の元祖であり、夜店の代名詞的存在であった。 

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。



「かくれんぼ横丁」 と 「芸者新道」


  かくれんぼ横丁   芸者新道

 神楽坂通りを中心に、縦横に横丁が通っています。
 石畳で昔の面影を残し、料亭やおしゃれなお店が並んでいます。

若宮八幡神社

 
若宮八幡神社
 若宮八幡神社は、鎌倉時代の文治五年秋、源頼朝が奥州征伐に向かう際、この地で戦勝祈願を行い、鎌倉の若宮八幡宮(鶴岡八幡宮の若宮社)を勧請したと伝えられる。当初は仁徳天皇(若宮)を祀っていたが、後に応神天皇が祀られるようになった。
 文明年間(1469〜87)江戸城鎮護のため、太田道灌によって再興された。
 別当は光明山普門院であったが、明治の神仏分離に際し、落飾して神職となった。

「牛込城跡」 と 「光照寺」



光照寺
牛込城跡
 光照寺一帯が城跡だとされています。戦国時代、群馬県赤城山麓大胡の豪族、大胡氏は、小田原北条氏の上野進出で、その軍門に降り家臣となり、北条氏の要請に従って、大永六年(1526)に大胡重行がここに移住してきました。重行の子の勝行は、地名に因んで牛込氏を名乗り、赤坂・桜田・日比谷付近も領有し、牛込城を築城しましたが、天正十八年(1590)小田原北条氏滅亡後は、徳川家康に服従し家臣となり、城は取り壊されてしまいました。



光照寺
 光照寺は慶長八年(1603)松平次郎左衛門信貞の開基、清誉上人光照の開山とした浄土宗の寺院である。増上寺の末寺で樹王山正覚院光照寺という。正保二年(1645)神田誓願寺町から現在の地へ移転してきました。
 出羽松山藩江戸屋敷の菩提寺だったため、境内には初代忠恒をはじめ歴代藩主の墓が約50墓建っています。
 寺宝には、木造地蔵菩薩像、十一面観音坐像などがある。
 木造地蔵菩薩像は、鎌倉時代の作品で新宿区内で最古の仏像彫刻の一つである。もとは、近江国三井寺にあったという。地蔵坂
 後宇多天皇の皇后が、後二条天皇を出産される際、難産でこの像に祈ったところ無事出産したことから「泰産地蔵」と呼ばれるようになり、江戸時代には安産の地蔵として信仰を集めたという。光照寺前の地蔵坂はこの像にちなんでいる。
 十一面観音坐像は、江戸時代後期の作品で作者は、木食明満(1718〜1810)である。
 明満は、円空と並び称される仏像聖であった。



日本出版クラブ
 日本出版クラブに新暦調御用所(天文屋敷)跡の説明板がたっている。この地が居館城郭の一部であったことや、ビルを建設した際、地下10mから大きな横穴を発見して、牛込城や江戸城との関係が取り沙汰されたことなどが書かれています。

堀兼の井跡

 堀兼の井跡
 堀兼の井とは、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、大勢の人たちが苦労して掘った井戸のことを意味している。
 市谷船河原町の堀兼の井には、継母にいじめられ、いたずらをしないようにと井戸を朝から晩まで素手で掘らされ、井戸を掘ったが水が出ずとうとう亡くなってしまったという悲しい伝説が残っています。

日仏学院

 日仏学院
 1952年1月16日、東京日仏学院は、高松宮殿下、吉田茂首相、デジャン駐日フランス大使臨席のもとで開校。この地はかつて相馬男爵のものであった。
 
 土地に隣接する「逢坂」は、昔、小野美佐吾というものがこの地へ来たとき、恋におち、のちに都に帰って没しましたが、娘の夢によって、この坂で再びあったという伝説から「逢坂」という名がついたといいます。

赤木神社

 
 正安二年(1300)、後伏見天皇の創祀に際して、群馬県赤城山麓の大胡の豪族であった大胡彦太郎重治が牛込に移住した時、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祀りしたのが始まりと伝えられています。
 その後、牛込早稲田の田島村(今の早稲田鶴巻町 元赤城神社の所在地)に鎮座していたお社を寛正元年(1460)に太田道潅が神威を尊んで、牛込台(今の牛込見付附近)に遷し、さらに弘治元年(1555)に、大胡宮内少輔(牛込氏)が現在の場所に遷したといわれています。この牛込氏は、大胡氏の後裔にあたります。
 天和三年(1683)、徳川幕府は江戸大社の列に加え牛込の総鎮守と崇めました。「日枝神社」「神田明神」と共に、「江戸の三社」と称され、この三社による祭礼の際における山車、練物等は江戸城の竹橋から内堀に入り半蔵門に出ることを許されていました。
 その後、明治六年に郷社に列することになります。また、その後の祭礼にも少しは山車がでましたが、電柱や電燈などの障害物ができたので、盛観を極めた山車の行列も明治三十二年の大祭に数本練り歩いたのを最後に、各町の神酒所に山車お人形を飾るようになっていったとされています。

筑土八幡神社

 
 筑土八幡神社   筑土八幡神社 鳥居
 筑土八幡神社は、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に創建と伝えられている。
 その後、平安時代に伝教大師が神像を彫刻して祠(ほこら)に祀(まつ)る時に、筑紫の宇佐神宮の宮土をもとめて礎(いしずえ)としたので、筑土八幡宮と呼ばれるようになった。筑土八幡神社 庚申塔
 文明年間(1469-1487)になって、江戸城主、上杉朝興が社殿を作り、牛込東部の産土神(うぶすながみ)とし、また江戸鎮護の神として仰いだ。
 石造りの鳥居は、区の有形文化財で、享保十一年(1726)に建立された区内で最古の鳥居である。
 また、境内には寛文四年(1664)に奉納された二猿桃を配した全国的にも珍しい庚申塔と作曲家田村虎蔵の顕彰碑が建っている。筑土八幡神社の裏手は、田村虎蔵旧居跡である。



田村虎蔵の顕彰碑 田村虎蔵
 鳥取県生まれ。東京高等師範学校兼東京音楽学校助教諭となり、ここで、音楽教育の改草を次々と行う。
 「言文一致唱歌」を提唱し、児童の発声法の改善を唱え、鑑賞教育の必要性を強調した。わが国音楽教育の偉大な先駆者であるだけでなく、今もなお愛唱されている数多くの唱歌の作曲者として著名である。昭和十八年に没する。
 代表作には、「「大黒様」「金太郎」「花咲爺」「浦島太郎」「牛若丸」「一寸法師」などがある。


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