江戸城の歴史散歩


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二重橋
 江戸の地にはじめて城を築いたのは平安時代末期に「武蔵七党」の一つである秩父党の江戸重継という人物である。江戸氏が関東の騒乱で没落すると、康正三年(1457)に太田道灌が江戸氏の居館跡に江戸城を築城した。道灌が「わが庵は松原続き海近く、富士の高嶺を軒端にぞ見る」と詠んだように、江戸城は海に面した美しい風景とともに建つお城だったと思われる。
 徳川家康が天下を統一した頃の江戸城は、荒れ果てた状態であったため、慶長十一年(1606)から本格的な築城工事に着手し、3代将軍徳川家光の寛永十三年年(1636)に完成した。
 慶応四年(1868)、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、東京城に改名された。翌明治二年(1869)、東京奠都により皇城となり、明治二十一年(1888)には明治宮殿の完成によって宮城と称された後、昭和二十三年(1948)に現在の皇居と改称されるようになった。

 大手門



大手門
 江戸城の正門。築城の名人として知られる藤堂高虎が基本設計し、慶長十一年(1606)から建設が始まった。江戸城大手門を枡形門としたのは、伊達政宗らである。
 枡形門は、2つの門からなり、第一の門を「高麗門」、第二の門を「渡櫓門」という。諸大名はこの大手門から登城したため、警備も厳重で鉄砲30丁、弓10張、持弓2組、持筒2丁、長柄槍20筋が常備されていたという。高麗門は、石垣と鉄砲狭間に囲まれている。
 かつて門前には大手門橋がかけられていたが、大正年間に埋め立てられた。
 

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。



辰巳櫓

 辰巳櫓
 桜田二重櫓とも呼ばれる、江戸城で唯一の隅櫓。白亜漆喰総塗込めでとても美しい櫓である。
 江戸城にはこのような櫓が20基近くあったが、現在では富士見櫓・伏見櫓の三基が残っているだけである。

桔梗門

 桔梗門
 内桜田門ともいわれ、現在は皇居参拝者や勤労奉仕の人達が出入りする門になります。
 名前の由来は、大田道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門と名前になったという説、帰郷、吉祥、吉慶から付いたなどと諸説がありはっきりしていません。

坂下門

 
坂下門
 西の丸坂下にあったため坂下門と呼ばれるようになった。
 老中安藤信正は、公武合体運動を推進して、皇女和宮の降嫁に成功した。これに激怒した勤皇派の水戸浪士は文久二年(1862)、坂下門前の屋敷から登城途中にあった安藤信正を襲撃し、信正は坂下門内に逃げ込んで一命を取り留めた。世にいう坂下門外の変である。
 
 現在は宮内庁の通用門で、この門内に宮内庁があります。

皇居正門 と 二重橋


  皇居正門、二重橋

【皇居正門】
 江戸城西の丸の大手門であったが、現在は皇居正門となっている。
 天皇誕生日の12月23日と新年の2日の皇居一般参賀にはこの正門から一般の方も入場します。

【二重橋】
 別名「石橋」、観光客が絶えることがない江戸城の代表的な景観である。
 昔は木製の橋だったが、濠が深いので橋脚が建てられず、橋を二重にし、下の橋を支えにしたので二重橋と名がついたという。

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桜田門

 桜田門
 万延元年(1860)雪で視界が悪い中、大老井伊直弼が、水戸・薩摩浪士に襲撃され死亡した。世にいう「桜田門外の変」である。
 このような事件があったが、ここは「名所江戸百景」に描かれるほどの景勝地であった。
 また、国の重要文化財に指定されている。

半蔵門

 半蔵門
 この門を警固していた服部半蔵の組屋敷が近くにあったことから、半蔵門という名になったという。服部半蔵は伊賀の忍者である。
 現在は、天皇・皇后がお住まいの吹上御所に通じる門である。

天守台(天守閣跡)

 天守台(天守閣跡)
 寛永十五年(1638)3代将軍徳川家光が建てた天守閣跡になる。
 金の鯱をのせた五層の天守閣で、天守台の高さは約10m、天守閣は44mであったという。
 しかし、明暦の大火(1657)で焼失後は、城下の復興が最優先で、その後再建はされなかった。

松の大廊下跡

 松の大廊下跡
 松の大廊下といえば元禄十四年(1701)3月14日、赤穂藩主・浅野匠頭が吉良上野介を斬りつけた赤穂浪士の討ち入り事件の発端の地として有名である。
 松の大廊下は、江戸城本丸の大広間と白書院をつなぐもので、浜松に群れ飛ぶ千鳥を描いた襖絵が飾ってあったという。
》赤穂浪士の泉岳寺へ

梅林坂

 梅林坂
 梅林坂は、文明十年(1478)、太田道灌が菅原道真の天神社をまつり、紅梅、白梅を数百株植えたことに名前が由来する。また、道灌は、ここに山王権現堂を築いた。
 江戸城の本丸造営にあたって、天神社は麹町に移され平河天満宮となり、山王権現社は紅葉山にまつられたが、火災で場外に移り、現在は赤坂にある山王日枝神社となっている。

田安門

 田安門 門名の由来は、この周辺が田安台という高地で,田安大明神があったので門名に称としたという。
 かつて門内には、千姫や春日局などが将軍の死後、尼となって住んでいた屋敷があった。その後、享保十五年(1730)、8代将軍徳川吉宗の子宗武が田安家を興した。
 田安門は、国の指定重要文化財である。

同心番所

 同心番所
 「番所」とは、警備の詰所のことで、同心番所、百人番所、大番所の3つが現在残っております。
 城の奥にある番所ほど、位の高い役人が詰めていたそうです。
 この同心番所は、大手三の丸を警固する与力、同心が詰めていた。尾張、紀伊、水戸の御三家以外は、駕籠や馬から降ろされ、検問を受け、 お共はここで主人の帰りを待ち、情報の交換の場所としていたため、「下馬評」の原語になったという。

 同心とは、江戸時代の下級役人の総称で、諸奉行・所司代・城代・大番頭などの下にあって、庶務・警備の仕事を行っていた。

百人番所

百人番所
 最大の検問所であった百人番所は、大手三の門の前に設けられた、本丸と二の丸へ通じる要所で、最後の固めとして睨みを利かせていた。
 鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎馬の四組が交代で詰めていて、各組とも与力20人、同心100人が配属され、昼夜を交代で警固に当たっていた。
 






大番所

大番所
 中之門跡を過ぎ、右側に設けれらているのが、江戸城本丸へは最後の番所であった大番所であり、他の番所よりも位の高い与力・同心によって警護されていた。
 この番所は当時のままで保存しされていて、大名や旗本であってもここからは乗り物から降りて歩いて登城しなければならなかったという。

富士見多聞

 富士見多聞
 多門は、防衛を兼ねて石垣の上に作られた長屋造りの櫓の一種で鉄砲や弓がを収める倉庫であった。江戸城本丸には15棟の多門があったが、富士見多門は、その中の随一の遺構である。
 「富士見」という名前は、富士さんがよく見える眺望の良い高地にあったためにつけられた。

石室

 石室
 石室は、江戸城の抜け穴とか、金蔵という説もあるが、大奥御主殿、御納戸の脇という場所柄から、非常時の大奥の調度品や文書類など、貴重品を納めた富士見御宝蔵の跡と考えられている。
 伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られている。

平川門

 江戸城の裏門、大奥に最も近いので、大奥女中達の出入りする通用門でもあり 、御三卿(清水・一橋・田安)の登城口でもあった。
 春日局が門限に遅れ、ここで一晩あかした逸話が残っている。
 門の由来は以前は平川村があったからといわれている。
 この門は別名、不浄門ともいわれ、死者や罪人の遺体はここから出されたそうです。


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