水道橋、神保町、お茶の水の歴史散歩


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ニコライ堂
 
 JR水道橋駅の南が三崎町という。明治五年(1872)にその名が生まれ、由来は、およそ四百年前、江戸江戸幕府が開かれるくらいまでこの周辺の村名であった「三崎村」からその名がついたという。

 神保町の名は、神田神保町に住んでいた江戸時代の旗本・神保長治からきているという。彼の邸宅の前の道は「神保小路」と呼ばれていた。大正二年(1913)、神保町周辺一帯が、大火で焼失しが、現在では古本屋が多数あることで有名である。また、戦時中には、アメリカ軍が「神保町の古書が焼失することは、文化的に極めて大きな損失である」として、この一帯のみ空襲を避けたという都市伝説もある。

 お茶の水は、高林寺の名水で、鷹狩りの帰りに立ち寄った2代将軍徳川秀忠がお茶を飲んで以来、徳川家御用達の名水になったのが、お茶の水の由来といわれている。
 

 三崎三座


 明治二十三年、陸軍練兵場(旧・講武所)が三菱会社に払い下げられ、市街地としての三崎町の開発がはじまる。この開発に伴い三つの芝居小屋ができることとなる。これが三崎三座である。



三崎座【三崎座】
 明治二十四年(1891)に開演した劇場。
 劇場の規模は小さかったが、東京で唯一座付き女優による芝居興行で有名になり、学生や文人の観客が多く来ていた。
 関東大震災で焼けてしまったが、神田劇場と名前を変えて復活し、昭和初期まで存続していた。
 



川上座【川上座】
 明治二十九年(1896)に開演した劇場。
 劇場の規模は三座の中で二番目の劇場であった。
 「オッペケペー節」で有名な新派俳優の川上音次郎が自由民権思想の普及・歌舞伎劇に対抗して創立した。
 明治三十四年(1901)改良座と名前を一新したが、明治三十六年の失火してなくなり、以後再開することはありませんでした。



東京座
【東京座】
 明治三十年(1897)に開演した劇場。
 三座の中で一番大きな劇場で、2000人以上動員することができ、東京五大劇場の一つといわれていた。
 市川猿之助などを中心として上演し、演劇界に新しい風を吹き込む大きな役割を果たしたが、大正四年(1915)に廃座となった。
 

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


三崎稲荷神社

 三崎稲荷神社
 JR水道橋駅東口近くに建つ三崎稲荷神社。建久以前に創建された古い神社である。神田山(現、駿河台)が埋め立てのため切り崩された際に、三崎村に移転、万延元年(1860)講武所できる際に水道橋に移転し、甲武鉄道(現JR中央線)が万世橋まで延長されたのに伴い明治三十八年(1905)現在の地に遷座される。
 三崎神社の宮神輿は「宮惣」の村田喜三郎作のもので、幻の神輿といわれている。

神田上水懸樋跡

 神田上水懸樋跡
 江戸で最も早く整備された上水といわれる神田上水。
 徳川家康の家臣大久保藤五郎が慶長年間に着手する。
 井之頭池を水源とし、妙正寺池からの水を集め、玉川上水分水の流末が淀橋を流れるのも合わせて目白台の下に入り、堰を設けて余水を江戸川に落として、小日向台の麓に沿い小石川後楽園内を通り、水道橋の少し下流から大樋で渡したといいます。

漱石記念碑

 漱石記念碑
 錦華小学校に設置されている漱石記念碑。
 夏目漱石は牛込馬場下横町に生まれ、地元の市ヶ谷小学校を卒業したにもかかわらず、神田猿楽町の金華小学校に再入学している。
 錦華小学校は、現在お茶の水小学校と名前を変えているが、明治七年(1874)の創立で、百年以上の歴史を持つ学校である。

太田姫稲荷神社

 太田姫稲荷神社
 室町時代の末頃、関東一帯には天然痘が流行し、太田道灌の娘もその病いにかかってしまいました。
 道灌は、京都伏見の「一口稲荷」に祈ると快癒するという噂を聞き、さっそく「一口稲荷」に平癒を祈願しにいくと、娘は全快したいいます。
 後に太田道灌が、江戸城を築く時、その鬼門除けとして、太田家の姫を救った「一口稲荷」を移し奉りました。長祿元年(1457)の事であります。

小栗上野介屋敷跡

 小栗上野介屋敷跡
 34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポウハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。
 明治初期は、坂本竜馬や勝海舟などを英雄視した反面、小栗の評価は決していいものではなかったが、近代になり小栗の評価は見直された。

ニコライ堂

 ニコライ堂
 日本最大のビザンチン様式の大聖堂である。聖ニコライの依頼によりロシアの建築家ミハイル・シチュールポフが基本設計図を作成、明治十七年(1884)から7年間をかけて完成した。
 ニコライは明治三年(1870)、日本伝道会会長となった。
 関東大震災で上部のドームと鐘楼が倒壊したが、1929年に復興、現在は国の重要文化財に指定されている。

蜀山人終焉の地

 蜀山人終焉の地
 太田南畝は江戸の牛込生まれ、蜀山人の名でも知られた。勘定所幕吏として支配勘定にまでのぼりつめたが、一方、余技で狂歌集や洒落本などを著した。
 唐衣橘洲・朱楽菅江と共に狂歌三大家といわれる。
 文政六年(1823)の歳旦の試筆に、「生きすぎて七十五年食い潰し限り知られぬ天地の恩」と詠み、その年の四月六日に身罷った。

お茶の水の碑

 お茶の水の碑
 お茶の水は、高林寺の名水で、鷹狩りの帰りに立ち寄った2代将軍徳川秀忠がお茶を飲んで以来、徳川家御用達の名水になったのが、お茶の水の由来といわれている。
 高林寺は明暦の大火(1657)で焼けてしまい、駒込に移転することとなった。
 お茶の水の碑は、JR御茶ノ水駅西口の交番の隣に建っている。


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