長善寺(笹寺)
長善寺(笹寺)は、天正三年(1575)甲斐国武田信玄の家臣高坂弾正昌信の縁者に当たる文叟燐学和尚が開山した伝えられ,徳川2代将軍秀忠が鷹狩りの途中で立ち寄り,生い茂っている熊笹を見て笹寺と名づけたといわれる。
境内には寛永元年(1624)に横綱明石志賀之助がここで相撲興行を行ったのを記念する「四谷勧進角力始祖」と刻まれた石碑がある。これは初代横綱・明石志賀之助が、寛永元年(1624)に笹寺の境内で江戸で初めて晴天六日間の勧進相撲興行をしたことを記念して東京角力協会が建立したものである。
勧進相撲というのは、神社仏閣の建立や修復を名目に相撲興業を行い広く浄財を集めることである。相撲は歌舞伎・吉原と並ぶ江戸三大娯楽の一つと言われていたが、笹寺は「江戸勧進相撲」の発祥の地なのである。
また、新宿区の有形文化財に指定されている寺宝「めのう観音像」は、赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像で、徳川2代将軍徳川秀忠夫人の念持仏と伝えられる。
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関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。
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於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)
於岩稲荷田宮神社は、東海道四谷怪談として有名なお岩の霊を祀っている。
東海道四谷怪談にでてくるお岩は、婿養子の夫伊右衛門の浮気に嫉妬し狂乱して夫に毒殺されるという話だが、実際のお岩は夫を助け、健気な一生を送った女性だという。
お岩は、徳川家の御家人の田宮又左衛門の娘で、夫の田宮伊右衛門とは人も羨むとても仲のいい夫婦で、 代々家に伝わる稲荷を厚く信仰し、蓄えを増やし田宮家を再興させた。 このことがたちまち江戸の評判になり、人々はお岩の幸運にあやかろうとして、屋敷社を「お岩稲荷」と呼んで参拝し、信仰するようになったという。 |
本性寺
千葉県松戸の本土寺の末寺で、寛文十八年(1670)に建立された日蓮宗の寺である。
山門と毘沙門堂は、釘を一本も使わない手斧削りの切組造り、元禄頃の建造とされている。
江戸城本丸にあった毘沙門天像を安置しており、この像が北を向いていることから「北向き毘沙門天」とも呼ばれる。北方の仙台藩伊達氏が謀反を起こさないようにと、徳川家康が北向きに安置して祈願したという伝説が残されている。
墓所には塙保己一の師であった国学者・歌人萩原宗固の墓があり、新宿区の史跡に登録されている。 |
須賀神社
須賀神社は、四谷18ヶ町の総鎮守。
御祭神は、建速須佐之男命(牛頭天王)と宇迦能御魂神(稲荷大神)の両神を祀っています。
宇迦能御魂神(稲荷大神)は、赤坂一ツ木村の鎮守で、清水谷にあった宝蔵院の稲荷社を、寛永十一年(1634)江戸城外堀普請のため、現在の地へ遷座いたしました。
須佐之男命の鎮座は、同十四年(1637)四谷門外明地が、日本橋伝馬町の助役地になったため、大伝馬町の産土神、神田明神の境内にある牛頭天王を勧請して、御仮屋横丁に小祠を建てました。これが次第に繁昌したので、氏子が相談の上、寛永二十一年、寺社奉行、町奉行に願い出て、同年6月18日、宝蔵院稲荷社殿に遷座し、、「稲荷天王合社」となり、俗称四谷天王社と云い、明治維新まで親しまれて来ました。
須賀神社に改めたのは、明治元年新政府の強制で、かつて出雲で須佐之男が八岐大蛇を退治した時、 吾れ此地に至りて心須賀、須賀し と宣って宮居を占めた故事に基づき名づけられた。総本社は島根県にある。
「天王祭」は江戸五大祭りの一つで、大変な賑わいを見せたという。 明治五年に郷社に昇格、戦後は制度の改正により、旧社格は撤廃されました。
また、境内には大鳥神社があり、大鳥神社の酉の市は、浅草に次ぐ東京第二の賑わいと言われていた。
三十六歌仙絵
三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3人が、平安時代前期の「古今集」「後撰集」頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町など33人が選ばれている。
画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功の書により天保七年(1836)に完成、奉納されたもの。
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愛染院
麹町貝塚にあった愛染院は、江戸城の拡張工事のため、寛永十一年(1634)、この地に移りました。
新宿区指定史跡の「高松喜六の墓」と「塙保己一の墓」が残されています。
高松喜六は、墓石に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれているように、内藤新宿の生みの親といわれています。
一方、塙保己一は幼い頃に肝臓を病み、7歳で失明。13歳で江戸に出て、音曲・鍼医術を修め、国学、漢学、和歌、医学など幅広く学びました。和学講談所を設立して多くの門人を指導し、41年の歳月をかけて編さんした「群書類従」を刊行した苦学の人です。 |
東福院
天正三年(1575)、開基 法印祐賢上人、下護者大沢孫右衛門尉によって麹町9丁目に創建。寛永十一年(1634)この地に移転しました。
入口右側に建つ豆腐地蔵が建っています。
豆腐地蔵
昔この付近に、よこしまな心をもった豆腐屋がいた。毎晩豆腐を買いにくる坊さんがいたが、豆腐屋が代金を竹筒に入れておくと、翌朝これがシキミの葉になっている。さては、狐か狸が坊さんに化けていたずらをしているのであろうと考え、こらしめに手を切ってしまった。豆腐屋が血痕を追ってみると、東福院の門内に入って、この地蔵のところまで続いている。豆腐屋は坊さんの正体が地蔵であると知って後悔し、それからは心を入れ替えて正直な商売をしたという。
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西念寺
西念寺は、文禄二年(1593)に服部半蔵が創建した浄土宗の寺です。当初は麹町清水谷にありましたが、寛永十一年(1634)の江戸城の拡張工事によって、現在地へと移りました。
半蔵は、徳川家康の三河時代からの旧臣で、石見守正成という伊賀者の頭。天正七年(1579)、家康の長男信康は、織田信長のために切腹を命ぜられました。このとき半蔵は介錯役でしたが信康の非業の最期を見るに忍びず、金縛りになり、号泣して介錯できなかったといわれています。
後年、信康を供養するため、半蔵が西念寺を創建しました。慶長元年(1596)に55歳で没し、自らの創建した安養院(西念寺)に葬られました。墓は、本堂右隣にある新宿区指定史跡です。
半蔵は槍の名手としても知られ、当時「槍の半蔵」の異名も。寺で所蔵する区登録文化財の槍は、半蔵愛用のものです。
半蔵門は、服部半蔵からその名がつけられました。
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真成院
真成院は、豊臣秀吉が死去した年にあたる慶長三年(1598)、祈祷僧である清心法印によって開山。 江戸城外濠工事のため、幕府に替地として与えられた四谷に移転し、その後、
本堂と観音堂が失われてしまったものの、天保八年(1837)に再建。 その頃に描かれた『江戸名所図会』では、「四谷の四名所の一つ」に数えられています。
「御府内八十八ヶ所」の第三十九番札所であり、また潮干観音は「江戸三十三観音」の 第十八番札所の本尊様です。さらに薬師如来は「関東九十一薬師霊場」の第十三番札所の本尊様であり、
難病を抱えた人々の救済寺として、毎日多くの方々にご参拝いただいております。
観音坂は、この坂の西脇にある真成院の潮踏観音に因んで名付けられた。 |
西應寺
西應寺は、慶長十二年(1607)麹町貝塚夫婦坂に創建、開山、開基は周桂和尚で家康の命名により松雲山西應寺と号する。寛永十二年(1635)現在地に移転。
幕末から明治にかけて活躍した、「最後の剣客」といわれた榊原鍵吉の墓がある。鍵吉は、幕府講武所剣師範役直心影流の男谷下総守信友門下となり、免許皆伝、文久二年(1862)師範に昇進、元治元年(1864)下谷車坂に道場を開く、上野戦争、明治維新では徳川に従い静岡に移ったが上京、撃剣会を発足、衰退した剣術の再興普及に努めた。 |
宗福寺
宗福寺は、四谷正宗の異名を持つ名刀工源清麿の墓がある。
四谷伊賀町稲荷横丁に住み、鍛えた刀の切れ味は、名刀正宗のようであったため、世の人は「四谷正宗」と呼んだ。
吉田松陰や佐久間象山と交友があり、二人が殺されたのを悲しみ、安政元年に42歳で自害した。 |
戒行寺
戒行寺は、文禄四年(1595)玉泉院日養上人によって麹町8丁目に唱題修行の戒行庵として創建され、天守番を勤める隣家の宮重作兵衛忠次が檀那になって尽力、寛永十一年現在地に移転し戒行寺が建立された。
「鬼平」こと長谷川平蔵宣似の菩提寺で池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」として有名だが、鬼平は、松平定信の寛政の改革時代に実在し実際に活躍した人物である。
200回忌に建てられた供養碑が山門を入った右側に建っている。 |
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