西巣鴨の歴史散歩


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妙行寺
 江戸時代のこの辺りは、広大な大名屋敷や武家地、御薬園で占められていて、中山道沿いの町並み(現在の巣鴨地蔵通り)が賑わいをみせていた。
 板橋宿への途中で庚申塚には問屋場や茶屋もあり、その様子は安藤広重の浮世絵や「江戸名所図会」にも載っている。
 また、地蔵通りから板橋の清水町にいたる街道沿いには、種子屋が9件、小売店が20件あって、「種屋街道」とも呼ばれていた。


大都映画巣鴨撮影所跡



大都映画巣鴨撮影所跡
 大都映画は、昭和八年(1933)に設立された東京・西巣鴨に存在した映画会社である。
 初代社長の河合徳三郎は土建業で成功した人物で、関東の親分の一人でもあった。
 新興の小企業であったが、低予算娯楽作の大量供給と安価な入場料でメジャーに対抗した。
 しかし、昭和十二年の日中戦争の頃から、映画を含めたメディアへの規制が強まり、昭和十六年には徹底した国家管理の元統合され、翌年大都映画は大映となり巣鴨撮影所は閉鎖されてしまった。多くの作品は現存していないが、近年、地元巣鴨を中心として、その存在は再評価されている。この地で生まれた作品総数は、1300本を超えている。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


正法院



正法院
 正法院は、 寺伝によれば、天平二年 (730) 行基によって、 上野下谷が岡に、 京都藤森稲荷を勧請し (のちに下谷稲荷と呼ばれる) 合わせ開創された由緒ある寺である。
 江戸時代、大火の度に周辺は焼けたが、寺は免れたため、 「火伏観音」 とあがめ篤く拝まれた。

 本尊の十一面観音は、行基の作といわれている。
 下谷からこの地に移転してきたのは、明治三十八年(1905)で、この辺りの寺町では一番古い。 本堂裏の旧本堂は輪王寺宮の書院を下賜されて移したもので、境内には円柱形石棒や石灯籠などがある。
 墓地には、「佐渡情話」で一世を風靡した寿々木米若(藤田氏・浪曲家)の墓がある。

西方寺



西方寺
 西方寺は、元和八年(1622)、土手の道哲といわれていた僧が浅草聖天町に一宇を建立したのに始まる。現在の地へは、明治二十四年(1927)に移転した。本堂は鉄筋コンクリート造りの近代的なデザインで、本堂の前には海軍予備学生を供養する一誠観音が建てられている。
 三ノ輪の浄閑寺とともに投込寺と呼ばれ吉原の遊女たちとの縁も深く、本堂裏手の堀際には万治高尾太夫の墓が建てられている。
 また、西方寺は招き猫で知られ、吉原三浦屋の薄雲太夫の危機を救ったとされ、太夫は猫塚を営み猫の墓前をともらったといういわれが残っている。
 墓地には、新内の岡本宮古太夫、狂歌師の俵船積の墓がある。

盛雲寺



 盛雲寺  新門辰五郎の墓


 盛雲寺は、新門辰五郎の墓があることで知られる寺で、元和元年(1615)下谷稲荷町に創立、現在地には明治四十一年(1908)に移転してきた。
 新門辰五郎は、幕末から明治にかけての町火消し・侠客として名を知られ、徳川慶喜に重用されるとともに娘が慶喜の愛妾となった。輪王寺宮が浅草寺に退隠した時、通用門を新設し、これを守らせたので新門の辰五郎と呼ばれた。 明治八年(1875)、七十六歳で死去。

白泉寺



白泉寺
 曹洞宗宗龍淵山白泉寺で朝日観音を祀る。慶長十六年(1611)浅草清島町に創建。明治四十四年(1911)当地に移る。
 境内には江戸初期から後にわたる年代の五輪塔や宝篋印塔、石灯籠があり、本堂前に万治元年(1658)の庚申塔など石碑群が数多く残されている。
 墓地には下総多古の久松松平家の墓域がある。

總禅寺



總禅寺
 徳川5代将軍綱吉から赤門を許されたことから別名「赤門寺」と呼ばれる曹洞宗松龍山總禅寺。寛永元年(1624)に日山宗春が湯島に創建。
 天和二年(1682)駒込大円寺から出火したいわゆる「八百屋お七家事」で類焼、駒込千駄木に移転し、幕府により再建された。明治三十年(1897)この地に移る。
 墓地には手塚家の墓がありマンガ家の手塚治虫が眠っている。墓の横には碑があり代表的な作品の主人公が描かれている。ほかに幕末の西洋医学の中心人物大槻俊斎、初代三遊亭円歌などの墓もある。

妙行寺



  妙行寺 本堂   納骨堂   「浄行様」「うなぎ供養塔」「魚がし供養塔」


 法華宗長徳山妙行寺で、もと四谷鮫が橋南町にあったが明治四十二年(1902)現在地に移転。
 参道の奥に大正初期に建立された木造の本堂があり、境内には、「納骨堂」、清潔な仏水で洗えば、その箇所がよくなるといわれる「浄行様」や明治三十三年(1902)に東京うなぎ蒲焼き商組合、東京淡水魚組合が建立した「うなぎ供養塔」、魚がしで犠牲になった生類の供養塔「魚がし供養塔」などの石碑が立ち並んでいる。


 墓地には「四谷怪談」のお岩様、浅野匠頭長夫人高光院殿、内匠頭長矩夫人瑤泉院(供養塔)、浅野大学長広夫人蓮光院殿などの墓がある。また、常磐津の名人林中の墓もある。   》お岩稲荷へ

善養寺



善養寺
 新宿の太宗寺、杉並の華徳院とともに江戸三代えんまの一つといわれ、運慶作と伝わる像は天保の頃に焼失し、現在の朱塗りの像はその後に作られたものである。善養寺は、この界隈の寺では歴史は一番古く、天長二年(825)開基である慈覚大師が上野山中に創立されたと伝えられ、その後下谷善養寺町に移転、現在の地には明治四十五年(1912)に移転した。
 薬師如来が本尊で、薬王山と号する。




 墓地には江戸時代の陶芸家・絵師として名を残した尾形乾山の墓と説明板が建てられている。

明治女学校跡

明治女学校跡

 女子高等教育の草分けである明治女学校は、明治十八年(1885)、キリスト教信者でアメリカで13年間学んだ木村熊二(1845年〜1927年)・鐙子夫妻らによって麹町に創立された。島崎藤村、北村透谷などを教師に招くなど、一時は隆盛を誇ったが、火災により校舎を失い、明治三十年(1897)に巣鴨村庚申塚に移転した。麹町時代には、自由学園の創始者羽仁もと子、新宿中村屋の創始者相馬黒光、庚申塚時代には作家の野上弥生子らが学んだ。

延命地蔵

延命地蔵

 中山道で行き倒れた人や馬の供養をするために建てられた元禄十一年(1698)創建と伝えられるもので、当初は都電荒川線・庚申塚駅の近くにあったが、都電の前身の王子電車ができる時に一度移転し、その後の二度目の移転で現在の地に移ってきた。


 狭い境内には、5つの石塔が建っている。「延命地蔵尊」を中央にして、左側には「庚申塔像塔」と「馬頭観音塔」、右側には「徳本名号塔」と「南無妙法蓮華経の題目塔」がある。延命地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、人々の苦しみや悩みを救ってくれるといわれる。

大日堂

  大日堂  大日堂の庚申塔


 大日堂は、徳川二代将軍秀忠とその夫人徳子に仕えた春海和尚により、承応二年(1653)に建立されたもので、堂内には像高約1メートルの石造大日如来坐像が安置されている。また、境内には、明暦二年(1656)の庚申塔が建っている。


 春海和尚は、湯島天神下にあった平等山真如寺宝性院の開山であり、もとは俗名久目助右衛門を名乗り「下男組頭役」として将軍夫妻に仕えていた。秀忠とその夫人の没後「新葬」の際に、宝性院は納経を行なったが、その時に与えられた布施で豊島郡巣鴨村のこの地に土地を求め、石造大日如来坐像を安置するために大日堂を建立したといわれる。

種子屋

種子屋

 「江戸切絵図」にも記載されている滝野川三軒屋のひとつ、種子屋の榎本家(分家)である。
 豊島区巣鴨から北区滝野川にかけての通りの旧中山道は、明治期から昭和十年代ごろまで通称「種子屋通り」と呼ばれていて、野菜の種子屋のメッカであった。


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